どうして器は広さが大切で、情は深さが大切なのだろうか?

広さと深さ

どうして器は広さなのに、情は深さなのだろう?「器が深いなぁ、お前は」なんて言われることはないし、「情の狭い奴め!」と言われた覚えもない。
確かに「器は広さ」で「情は深さ」なのだろう。

器って奴は、守備範囲なのだろうか?つまりは、受け入れられる物事の種類がたくさんある。
だから手広くカバーできる。
器というのはキャッチする事が目的の存在なのだから、深さは必要ないのだろう。
それよりもきっと、広さこそが器にとっての素晴らしさなのである。
では何故、情は深さが重視されるのだろうか?それは人の悩みは軽く浅く扱われても全然解決には至らないからだ。
人は人に自分の深い所まで知って貰って理解して貰って、心のわだかまりを解消させる。
そのためには、手早く手広くキャッチすることよりも、時間が掛かってもいいから受け取って貰った上で、その受け取って貰った何かを深い所まで「受け入れて」欲しいのである。

受け入れる、というのがきっと大事であり、受けるだけでなく「入れる」だけの深さが必要なのである。
情には。
だから、情は深さが大切なのである。

両立しない器と情

器は「とっさの判断力、忍耐力」であり、情は「思いやり、理解力」であると思った。
いやいや、日本語はよくできるいるなぁ。
まぁ実際の所、自然と使っているからどうでもいいことなのだが。
それでも日常にありふれている事をつぶさに観察するのも良いことである。
そんな事がわかった所で器が広く訳でも情が深くなる訳でもないのは確かである。
理解してもどうしようもない事もある。
その辺はやはり対人回数を増やす事でしか得られない物もあるのだろう。

ところで、器の広さと情の深さは両立するのだろうか?どうにもしない気がする。
似ているのだが、器は「浅く広く」こそが優秀であり、情は「狭く深く」こそが優秀だと思うからだ。

まさか、自分の心の深い悩みを、何の気遣いもためらいもなく周囲に言いふらす人間は情の深い人間とは言わないだろう。
だが、何の気遣いもためらいもなく周囲に自分の心の深い悩みを言いふらされた時に、冷静に対処できる人間は器の広い人間だと思う。
器の広さには狭さがないのである。
そして情には一種の閉ざされた空間というのが必要な気がする。
よって両立しないのではないだろうか。
それでも、どちらかを極める事ができれば人間関係ではそれなりに幸せになれるんだろうな。

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