「普通にやってればできる」っていう主張・意見が暴力的で嫌いな理由

既存文化のボトルネック

こんなのにわざわざ噛み付くのもどうかとちょっと思うけれども、それでも、そういったどうでもいいことでも思う存分自分の好き勝手に思いの丈を主張する事ができるのがブログの良い所であるから、それを存分に活用する事はやはり私は否定するつもりもない。

使い古されている事は効果と使いやすさという二点において強力であることが多いし、その効力の理由を根掘り葉掘り考える事も少ない。
だからこそ、その効果の強大さが廃れる事はない。

「だって昔からやってたじゃん」
この類の言葉の論理はまるで破綻しているのだけれども、この類の言葉は比類なき強さを発揮する。

人は科学的論理と根拠に則った上での良さよりも、自分の今までの経験の方に価値を見出す事が往々にしてある。

これは人の生存本能防衛本能の一種であるが、同時に成長繁栄の道を自ら阻んでいるような物でもある。

まぁ、その辺はバランスの問題で、日本人がこれだけ保守的な人間が多いかっていうと、保守的な人間じゃないと生き延びる事ができなかった事に起因する訳なんだから、一概に「成長繁栄、攻めの姿勢」なんて思考に体全身を染め上げてしまう事もないのだと思う。

こんな事はわざわざ言うまでもなく、普通に考えればわかる事であろう。
余計な事だった、申し訳ない。

言うまでもない「普通」の事

冒頭の文章でも「普通」という言葉は当然の流れとして出てきて、謝罪をした。

この場合は謙遜という意味合いで「普通」という言葉を使用して謝った。
わざわざ言うことではない事を、余計な事だと知りながらも言いたい気持ちを抑えきれずに言ってしまった、すまない。
という事を謝った。

「言うまでもない事」
つまりは聞き手側が当たり前に理解している事、何回も繰り返し聞かさせて、また聞かされるのがウンザリするほどの言葉、それをダメ押しでさらにもう一回聞かせる事。
まぁそれが大体の「言うまでもない事」なのだろう。

確か「1+1はねぇええ、実は2なんだよぉぉおぉ。わかったかなぁあwwww」みたいな発言を受けたら腹が立つ事だろう。
人は自分が当たり前に知っている事を「相手から知らない前提で話をされる」事を不快に思うケースが多い。

「私はこんな事も知らない人間だと思われていたのか!?プライドが傷つく事によってとてもムカつく!」というのが一連のプロセスだろう。

だから、普通に考えればわかる事をわざわざ言うのは失礼に当たるのである。

両者の認識齟齬を是正する能力はコミュニケーション能力の一つ

言うまでもない事をどのくらいまで二人で共有しているかは、実の所、言うまでもなくわかっていないはずだ。

当然、人は人の脳みその中を言葉を介せずに全て知りうる能力はない。
だから、人は人と脳内情報を伝え合うために言葉を使用しているのである。

しかし、会話も時間もコストであるがために、ショートカットのために、コスト削減のために二人の間で共有している「言うまでもない事」はできる限りカットされる。

だが、それが問題を引き起こす事が多々ある。

「Aさんの思う言うまでもない事」と「Bさんが思う言うまでもない事」には大きな隔たりがあるにも関わらず、両者はそれが一致していると何の根拠もないしに確信しがちだし、両者の見解を確認し合う作業すらも見落としがちだ。

「当たり前だろ、常識だろ、普通だろ」

それを相手がどんな感情を込めて言葉にして発しているかはわからない。

だが、そんな相手の「言うまでもない事」に一切配慮しないで行われる発言などコミュニケーションとは呼べない。

「自分にとっては言うまでもない事」が、「相手にとっては言って欲しい事」なのではないか?と配慮できる人間がコミュニケーション能力のある人なのだと思う。

「普通にやってればできる」というバッドコミュニケーション

他にも、「本当にやる気があるならできる」という発言も私は好きではない、というか嫌いだ。

私の普通は他の誰かにとっては普通ではないから、それを伝えるために言葉がある。
そういう役割が言葉にはあると思う。

にも関わらず「これは言うまでもない事だ!」と自分自身で断定して完結させてしまうのならば、そもそもその情報を相手に伝える必要性ってあったのかなぁ、と思う。
激励の言葉だと解釈したとしても、それはあまりにも暴力的だ。

「私の普通」と「相手の普通」
それを擦り合わせる行為がコミュニケーションなのではないだろうか。

アドセンス
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スマリッジ
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