「被っちゃってもいいさ」と考えるとスキルが向上する。

個性なんて、みんな持ってない

似たものばかりである。ある程度、他人より才能が上であるアーティストや芸術家でさえも、パクリ問題に直面して人気を低迷させるケースなんかがある。

人間は何十億と存在し、大半の人々は、自分が特別な存在だと信じて生きているのである。それが何十年何百年何千年以上も続いている。そんな無限と呼んでしまって良いような数の人達の中で、自分が一際輝いて特別性を発揮するということは、もうこれは奇跡と言っても差し支えないレベルなのである。特別であることは偶然の賜物であり奇跡である。

そんな奇跡は、才能がある人間は途方もない努力を重ねた上で、低確率で発生する産物なのである。その過程には数限りないアウトプットが存在するのは間違いない。

成功なんてまるで保証されない世界。幸か不幸か、この世界がそれに該当するのだ。当然、パクる事はイケない事だが、それでも被る事を恐れるのは間違っているのだ。これは場合によっては紙一重の違いにも相当するが、熟練の剣士が相手の太刀筋を恐れないが如く、成功を目指すアーティスト達もそれを恐れてはならない。

実はリスクではない

被る事を恐れて何も挑戦できず、何もアウトプットできない人が成功する道理が、この世界にはないからだ。どんなに勉強という名のインプットが得意な人でも、アウトプットができないばかりに才能を潰してしまうケースはあちらこちらに転がっている。

「被っちゃてもいいさ」と考えて気軽に実践する。気軽に行った事が被ったくらいで、オリジナルを超える事はまずない。劣化版コピーにしかならないだろう。だが、それでも実践による経験値は残る。実践の積み重ねでしか人は奇跡を起こせないのである。

不安は危険を遠ざけるけれど、不安は挑戦をも遠ざける。だから不安を抱く要素を間違えてはならない。リスクのない挑戦を恐れてはならない。

リスクのように見えるが、実は全然リスクではない場合がある。その一例が「被るかもしれないから、辞めておこう」である。勘違いしているようだが、大半の人間の存在そのものが、もう既に被りまくっているのである。今さら何を言うのだろうか。

皆と同じ食事を好み、皆と同じ歌手を好み、皆と同じ生活を夢見る。たまに、そんな事態に嫌悪して、皆と違う事をやろうとする行為も、皆やっている事である。まる被りも良いところである。

心配しなくても、皆ほとんど一緒である。だから意図的なパクリでないのならば、被る事を恐れるのは、そもそも間違っている。その間違いを正し、例え被ったとしてもアウトプットを継続的に行う事ができる人の場所に、奇跡は降り注ぐ。

アドセンス
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スマリッジ
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