誰にも会わない休日なのに無性にヒゲを抜きたくなる理由

今日は誰とも会わずとも

ヒゲ。

生えている人は理解してくれると信じているが、ヒゲってのは基本的に邪魔だ。

基本的にヒゲってのは伸び散らかしていると不快に思われる。
綺麗に蓄えたヒゲってのを作り上げるためには、顔という地盤がしっかりしている必要があるし、入念かつ長期的な計画が必要である。
にも関わらずやっと完成させたヒゲ面でも「社会のマナー的にあんまり良くない」とか言う意味不明な意見で否定されてしまう事がある。

日本はヒゲに厳しい。
私の人生経験から鑑みても、ヒゲに対してナーバスな傾向がある。

よってヒゲを抜かなくてはならない。
ヒゲを剃らなくてはならない。

これは中学生を過ぎた日本男児には、教育の義務、勤労の義務、納税の義務に匹敵するレベルでの強制力を持っている行動であるに違いない。

そんな強烈な拘束力を有している「ヒゲ」
休日でも、誰とも会わなくても、私は習慣的に剃ってしまう、抜いてしまう。

社会的マナーの恐ろしい所は、外面的で儀礼的な振る舞いを強制させられる不毛さにあるのではなく、日々行為を繰り返させる事によって人の根本的な思想までをも改ざんしてしまう所にあるのである。

ヒゲ抜きが精神安定剤になる時

私はヒゲを抜きました。
時に人に会うこともないのにヒゲを抜きました。

勉強の途中や遊びの途中でも、ふとヒゲの具合が気になって近場に置いてあるピンセットと鏡を取り出して、微に入り細を穿つが如く、まるでノイローゼのようにヒゲを抜こうとする。

別に意味はない。
でも落ち着かない。
だからヒゲを抜く。

社会性、マナーという毒素を習慣的に摂取させられた人間の姿。
憐れである。

鏡の前の自分にお辞儀をするが如く、会う人がいないのにヒゲを抜く。
これは一種の社会病である。

社会のマナーを多量投与された私の精神はヒゲ抜きに中毒的な快感を得てしまっている。

ヒゲが一本抜ける度に、私は安堵する。
ヒゲをピンセットで抜いている時に、途中でヒゲの先端が切れてしまって、何回もそれを繰り返してしまうから、最終的にはヒゲが皮膚に埋まってしまって抜けなくなった時には、どうしようもない絶望感が生じる。
私は社会人として失格なのではないか?このまま生きててもいいのだろうか?

悪いものだと認識してても

本当に抜きたいのはヒゲではない。
私の中に根付く悪しき習慣と思考だ。

無駄にヒゲを抜く度に、私は悪しき何かを脳内に植え付けている気がしてしまう。

良い悪いに関わらず、長く関わってきた物を人は簡単に否定できない。
理屈じゃない、わかっちゃいるけど、辞められない。
感情で動く人間を理屈で説得しようとする事の無意味さがここから読み取れる。

ヒゲ抜きに関しても同様だ。
この文章を書いている間でも、私は現在のヒゲの状況が気になる。

ヒゲは抜いてもまた生える。
これは善人や悪人についても同じ事が言える。
善人も悪人もいくら退治しても、いずれは新しい善人悪人が生まれるのである。
それがこの世の絶対法則なのだろう。

いくら抜いても生えてくる。
だからと言っても一生処理しなくて良い訳でもない。
だからそれに心を奪われてしまう機会は増える。
そしてヒゲに心を奪われたら暗黒面へと突入してしまう。

人はいくら清く正しく善性を持って生きていたとしても、悪を全く見なくなる事なんてない。

善人だって悪へと堕ちる時だってある。

光と闇は常に対立しているが、それと同時に共存してもいるのだ。

常にどこかに潜む闇に対して、どういった理解をするのか、どういった考え方をするのか、どういった対処をしていくのか。

ヒゲを見る度に、私はそんな事を思う。

アドセンス
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スマリッジ
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