誰とも比較しないで生きていけたら、きっとみんな幸せになれるんじゃないかな

人は社会に生きる存在である

住む家があって、毎日ご飯が食べられる。
仕事が魅力的ではなくても、安定していてストレスも全然ない。

そんな要素が揃っていても人は場合によっては簡単に落ち込んでしまい鬱になってしまうことなんかがある。

もっと社会的に意義のある仕事がしたい!もっとクリエイティブな仕事がしたい!
そんな風に思ってしまう事は贅沢な事なのだろうか?いや違う。

人は幸福は社会的な承認によって完成される。

誰かに優しくする事も、誰かのために生きるのも、権力を持って誰かに指図するのも、お金の力を使って誰かをこき使うのも、共通する所は社会と関わり合い、自分にとってプラスの効果を得ることなのだ。

人は成功したい、お金が欲しい。
でもその本質にある所は社会的なレベルでの快感を最大限まで高めたい!社会的なレベルのストレスを限りなく0にしたい!という欲望なのである。

社会に生きるからこそ、人は人と比較する。

誰かを幸せにするとか、誰かの上に立つとか。

そういうのは全部比較だ。

純粋な愛ならば絶対に受け取ってくれるという簡単な話ではない。
なぜなら受け取る相手からしても時間は有限であるし、受け取るならばより良い物を受け取りたいと思うのが自然だからだ。

だから、愛を提供する人間が複数になった時点で、愛もまた比較対象になってしまう。
戦いのための武器になってしまう。

愛なんて誰にでも提供できるものなのだから、無償の愛はあっても絶対的な愛は存在しない。
愛も飽和すれば薄利多売にするか付加価値を提供するしかなくなってくる。

絶対的な勝利も完全なる安全もこの世には存在しない。
なぜなら比較の原理が存在するし、人は社会に生きるからだ。

だからこそ、お金をある程度儲けたら隠居をするって人もそれなりの数で存在する訳である。

(その隠居生活がいつまで続くのかも不明だし、それが幸福であるかも不明ではあるが)

みんな仲良く!比較しないで社会生活ができたなら

そんな考えは完全なる妄想である。
そんな世界はまず存在しない。

だが悲観する必要もない。

比較は言うなれば挑戦であり戦いである。
そしてそれは適度であればそこそこ楽しい何かである。

だが、その比較という名の戦いにいつも破れていると、比較なんてなければいいのに!皆平等ならばいいのに!と思ってしまいがちである。

要は勝てないからこそ不幸なのである。

戦いの土俵が愛であれば権力であれば金銭であれ、なんであれ勝てないから人は比較に疲弊するのである。

単純だが残酷な真実であり、その原理原則は人が人である限り何百年も変わることはないだろう。

よって、比較に疲れた人間がそれを改善するための方法ってのも簡単で「とにかく勝てば良い!!」のである。
それ以外にはない。

そして現代はその勝利というご褒美にありつく事ができない人間がいるからこそ、ネット界での暴言荒らしやゲーム界での一騎当千なんかが大流行するのである。

言ってしまえば、誰かを攻撃して誰かが傷つくのならば、それは「小さな勝利」である。

(ネット界の暴言荒らしを肯定する意図はない、というか勝ち方にも色々あって、そんな勝利の仕方は結局自分を不幸にするのだが)
ゲームの世界だって、「現実に登場しない」というだけで、ゲームの世界の中では覇者になり強者となり敵を蹴散らすのも、また勝利である。

みんな潜在的には理解している。
この現実で比較という呪縛から解き放たれるためには比較優位になるしかない!勝利するしかない!という事を。

人生は戦いである!

何を武器にして戦うのか?どうやって勝利するのか?どういう勝ち方が望ましいのか?
という事を入念に考えておく事は至極重要である。

「戦い」という言葉に蹴落とすとか暴力という印象が多分に含まれてしまっている人からすると、そもそも戦うって概念が脳内に生まれないから、比較という現実に対峙して自然に勝利することができなくなると、無意識のうちに自分もしくは他人を貶めたり自傷したりして追い込んでしまう。

戦い=絶対悪、という概念が脳内にこびりついていると、自由な自己表現や欲望に直進することができなくなってくる。

その積み重ねがフラストレーションの蓄積になり、最終的には歪んだ形で出力されてしまう。

(ストレス発散のための正義感だったり、自分が優位だと知らしめるための教育だったり)

平和な社会は理想的ではあるが、現実的な問題から目をそらすと痛い目に遭うのは自分である。

不都合で不愉快な現実でも直視することは大切!!そこから理想への架け橋を作っていく事こそが理想的!!!

アドセンス
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