鞄の中身と頭の中身と内容物

日常の鞄

社会に生きる者、それはすなわち人間を指すのであるが、その人間のほとんど全てがカバンを持ち歩いて闘争の日々を押しつ押されつ奮闘している。

鞄。革に包むと書いて、鞄。人はそこに闘争の道具、ネゴシーエションのためのキッカケ、はたまた己の休息のための癒やしを詰める。侍が腰に刀を差して歩くように、社会人は己の生きる術をそこに携えて歩くのだ。

己は己の懐に潜む物を知り得ている。だからこそ、必要な物が必要になる状況にそれを出現させる事ができるのだ。だがしかし人は他人の鞄の中身を知らない。にも関わらず人は人の鞄の中身を無意識の内に断定する。

「己が内包する物を他人もまた内包しているのだろう」

漠然とそう思考し他人の鞄の中身を深く推察せずに他人と関わる。

とは言えども、他人の鞄の中身を知り得るのは非常に難しい話なのである。それは他人のプライバシーという著しく侵害するものであり、精神的暴力と言っても何ら差し支えない行為である事を知り尽くしているからである。それを知っているからこそ、知ることが叶わず知らぬ存ぜぬに甘んずるに至るのである。

内容物が不明であるならば、それは外装で判断されるのは致し方ない事であろう。そして鞄の外装にさほど違いはない、手で持つか背負うかの違い程度である。それ故に鞄の中身にもさほど違いはないと判断されるのがこの思考の終局である。

中身が見えずとも、外装が似通っているのならば、おそらく中身は似ているのだろう。

そんなロジックで鞄の中も心の中も人の歴史も、皆一様に似たような判定が成されて世界は幾分かの安定を獲得するのである。

異なる中身

だがそれは違う。それは大変な過ちである。

人には善人も悪人もいる。善人だろうが悪人だろうが、頭のデザインが大きく異なっている訳ではない。まるで判別がつかない。

その事をよくよく知りながら、信じられない事件を起こす人の存在を知りながら「人と人は通じ合える、同じ人間なのだから本質は変わらない」と言う。ならば、あなたはニュースで目にする凶悪事件を起こそうと思うのだろうか?起こせるのだろうか?大半は違うはずである。

つまりはデザインが酷似していようが、それが内容物を判断するには至らない。という話である。

さて、私やあなたがすれ違う人の鞄の中身には何が入っているのだろうか?それがその人を知るヒントにはなるだろう。しかしながら、それを知った所でどうしようも無いことも、また知る事になるだろう。

見えないようにしている物を無理に見ようと努力する事は、勇敢な行為と称する事もできるが、見える物は危険かつ断絶とも呼べるほどの自己とは程遠い世界の代物なのかもしれない。

アドセンス
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スマリッジ
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