「春の眠気」と「国語は心理学と道徳に支配され過ぎな件」と「論理よりも感情の方が役に立つ事もある場面」について

似てない人の心はわからない

春は眠くなる季節なのだろうか?最近の眠い理由をどこかに求めるのであれば、そんな所が一番納得しやすい回答だろう。
自分の不出来を何かに押しつける時、季節や天気は非常に使いやすい。

雨の日は低気圧だから調子が悪いとか、季節の変わり目だから調子が悪いとか、冬は寒いから、とか。
まぁ実際その通りで、天気や季節は人間を揺るがすものである事に違いはないのだから、責任転嫁なのか真実なのかは判定に困る所である。

体が強靭過ぎて、生きている間に疲れた経験がない!みたいな人からすれば、全員サボって言い訳しているようにしか見えないだろう。
「たかが温度や気圧や湿度の違いで人間の体調が崩れる訳がない!サボるにしてももうちょっとマシな言い訳を考えろ!」と本気で激怒するのではないだろうか?

国語って心理学要素多くない?

人間は実際に自分で経験した事でないと全然理解できないのである。
ずっと元気な人はいつも疲れている人の心情を理解できないのである。

だから国語のテストとかの「作者の心情を答えなさい」系の試験はまるで意味がないのである。
「この作者ならこう考えるだろう!」という推理で答案を埋める事はできるだろうが、それがわかった所で自分とはかけ離れた人間であれば、別にそんな人間の心情なんて知ったことではないし、どうでもいいのである。

というか、そもそも国語のテストで「人間の心」について答えさせる問題が出題されるのだろうか?今思えば意味不明である。
「自国の言語」についての学習が国語ではないのだろうか?「人間の心」についての問題であるのならば、心理学や道徳がその範疇ではないのだろうか?心情とかよりは、もうちょっと論理学的な要素を国語に詰め込んだ方が正しいように思える。
論理は言葉を使用するにおいて必要な要素であるから。

論理は万能ではない

とは思ったものの、どうなんだろうか?言葉ってのは論理で構成されているのか?それとも情動で構成されているのか?よく考えるとわかんねぇな。

言葉というのは色々な要素を含んでいる「人の精神的な要素の集合体」みたいな物なのだろう。
だからきっと作者の心情が問われるのだろう。
それはわかるけれども、ならば論理的な要素も国語の授業に含めてもいいと思うのだが。

眠いという私の気持ちを論理的に表現しようとした所で、確かな原因を求める事は難しいし、仮に答えに辿り着いたとしても天気や季節が相手だったらどうしようもないのである。

この場合、眠いという私の状態は情動によって決着を付けた方が楽だしわかりやすいだろう。
答えを知るのに大きな労力が掛かり、その答えの信憑性も高くはない、さらにはその答えを解決するのはほぼ不可能。
そうならば、「眠い!」という感情の発露を思いっきりしてしまい、それで自分の溢れる心情に終止符を打ってしまった方がお利口さんである。

春は眠い!私は寝る!終わり!

アドセンス
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スマリッジ
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