寂しさに慣れた時、そこに優しさはあるだろうか

寂しさと優しさの関係性

人はなぜ優しくするのだろうか?
その辺を深く考えていくと、きっと答えは何通りもあるので全てを答えきることはできないだろう。

ただ少なくても誰かに優しくするって時には、そこに誰かがいる時だ。
自分一人の時には優しさを与える相手がいないのだから、優しいことはできない。

この考察によってわかることは、優しさってのは社会的な行為であるという点である。

もっと言うならば社会的な利益を得るために人は人に優しくするのである。

ならば、寂しい気持ちが溢れてたまらない時には人はきっと人に優しくするだろう。
なんでもしてあげるだろうし、その人が喜ぶのが自分の喜びのように感じて嬉しくてたまらないだろう。

基本的に人間ってのは群れで行動するようにできている生き物だからこそ、他人の幸福を喜べるのである。

では、寂しい状況がいつまでも続いてしまった時。
誰かに優しくしてもその見返りが一切なく、孤独な状態で過ごさざるを得ない時が続く。
その状態が長く続き、寂しいという感情をその人から消え失せてしまった時、その人に優しさは残っているのだろうか?

何のための優しさなのか

無償の愛って言葉がある。
すごく高尚な事だときっと認知されている。

だが無料で提供するビジネスモデルが非常に有効である事が実証されてしまった現代においては、無償の愛にも何らかの策略を感じずにはいられない。

どんな事であれ、人が何かの行動をするってことは、その人自身の何らかの利益に繋がるから行うのだと思っている。
優しさも当然それに含まれる。

そうなるのならば、寂しさに慣れきってしまって社会的な関わりってのを一切求めない人間には優しさは必要なくなるのではないか?なんて事をふと考える。

どうなんだろう?実際の所は全然わからないけれど、優しさは消滅してしまう気がする。

人がどうして助け合うのか?って言うと、自分にはできない事があって、それが他人にはできるからである。
だから私はあなたができない事をやるから、あなたは私にできない事をやってね。
って感じで人はお互いの隙間を埋め合う。

自分の存在が完全無欠で一ミリの隙間もない人間であるならば、その人は誰かに助けてもらう必要もない。
助け合いは発生しない。

優しさってのは助け合いなのだから、やっぱり完全な人間には優しさは存在しないのだろうと思う。

だからこそ、表面上の優しさにも感謝したい

ここまでで、本当の優しさなんてないんだ!みんな何かしらの目的や策略があって優しさを振りまくんだ!っていう話をした。

まぁ、実際の所そうであるかはわからない。

ただ、今回の結論としては「理由はなんであれ、優しくしてくれる人がいるのならば、やはり感謝の念を抱いた方が良いのではないか」という事である。

なぜなら、誰かが私に優しくするってことは、「何かしらの利益が私に秘められている」という事に他ならないのだから。

それはもしかしたら、人を道具と見るような無機質的な利用価値なのかもしれない。
だがそれでも私に価値があることを優しい態度で私に証明してくれている。

その点については感謝してもいいのかもしれない。
まぁ、相手の要求を飲むかどうかは別だが。

人間の奥の奥の思惑や欲望までに手を突っ込んで、「人間は汚い生き物だ!」って悲観して疑って苦しんで生きるよりかは、幾分建設的な生き方ではないだろうか。

薄っぺらくても、表面上だけでも、上っ面でも。それは優しくが含まれていない訳ではない。

アドセンス
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