天才が孤独になる理由は「似た物同士でしか惹かれ合う可能性が存在しない」からであると推測する

似た物同士にのみ、惹かれ合う可能がある

天才の才能を解析することはできない。

いや、できないことはないか。でも解析できた所で、それを人間一人の努力で模倣することはできない。

きっと天才の才能は、解析も模倣も大人数の手によって長い歳月を掛けてようやく行われることなのだろう。

天才が具体的にどう天才たらしめているのかを理解できるということは、もうその時点で天才に近い才能を有しているのである。凡人は天才的な結果から、過程を逆算するという行為はできない。だから天才の考えは理解できない。天才は天才としか馴れ合わないのは当然の理屈である。

そうである。私達は「私自身が理解できる人間」としか馴れ合わないのである。さらには、理解できてもレベルが低すぎる相手とは馴れ合いたくないのである。

自分より上と馴れ合うのは不可能であり、自分より下と馴れ合うのは不愉快なのである。

「似た者同士は惹かれ合う」なんて格言があるが、あれは間違いである。実際は消去法的に馴れ合え得る相手が限定されてしまっているから、仕方がなく似たもの同士と人生を共有するのである。

つまりは惹かれ合ってなんかいないのである。

その制限においては天才もまた同様である。もっと酷いのは、天才は絶望的に個体数が少ない。だからこそ天才なのであるが、それが故に自己と似た物も少なくなる。

「似た物同士だからこそが惹かれ合う」のではなく、「似た物同士でしか惹かれ合う可能性が存在しない」というこの制限下で、数少ない天才同士が惹かれ合うことのできる可能性はどれほどだろうか?

人間の99パーセント以上の凡人が馴れ合える確率と、それを引いたパーセントの天才が馴れ合える確率には、絶望的な隔たりがある。

故に、当然の如く、天才は孤独に成り果てるのである。

妄想が自己定義になっている

凡人が上記のような天才の苦悩を語った所で何の意味があるのだろう?所詮は凡人の妄想である。最初に凡人は天才の発想を理解できないと述べているのに、天才の何を分かった風に文章を述べているのだろうか?甚だ疑問である。

ってのは、実際、凡人ほど「自分は特別だ」と思い込みたがるのだろう。過剰な自己称賛こそが凡人たる証拠なのだろう。普段の日常的な生活を人は妄想などしたりはしないのである。なので、ニヤケ面で妄想するようなことは現実では発生していないと自ら太鼓判を押しているのと同義なのである。

表面上は自己称賛を行っているつもりでも、その裏ではしっかりと自らに凡人の烙印を押しているのが人間の愉快な所である。

逆なのである。妄想はいつも真逆だ。日常から極端に離れたことを妄想するのだ。人間は。

これは何のために行われているのだろうか?原始時代のウホウホ言っていた時から行っていたのだろうか?そうでなければいつから行っていたのだろうか?これによって何のメリットを享受しているのだろうか?

謎である。謎であるが一つ分かることは、「抱える理想との距離を妄想によって擬似的に埋めて、ストレスを解消している」ということだ。

理想が叶わないが故のストレス。願うが故の苦悶。欲望という重荷。それらを解消するための自分への虚偽報告が妄想なのだろう。

凡人が天才を知った風な口ぶりで、天才の孤独やら苦痛なんかを分かったような切り口で語るのも、その当人が凡人でありならが天才に憧れている何よりの証拠なのである。

猿が「もしも私が猿だったなら」と妄想などしないだろう。人間もしないし、天才もしないのである。

理想がなければ行動は起きない。だが、叶わない理想を抱え続ければ己の妄想が理想との距離を固定化してしまうように感じる。

欲望の到達点は手の届く距離に置き、届く度に少しずつ到達点を更新し、到達するのが無理そうならば潔く諦める。

それがストレス少なく、己の妄想に邪魔されず、己の才能の限界まで発揮して、遠くで自己を飛ばせる有効なメソッドなのかもしれない。