この世には終わりに携わることを生業にしている人達がいる

終わりに関わる仕事

終わりマスター

終わりを司る存在のことをそう呼ぶか知らないけれど、この世には終わりに携わることを生業にしている人達がいる。

葬儀屋、住職、医者、警察、行政書士、司法書士、等など。

日常的に「終わり」を傍らで観察して、手伝い続けてくれている人達がいるからこそ、この世界に死者が散乱することはなく、まるで自分も、世間の人達もこのまま永遠に生き続けるのではないか、との錯覚を与えてくれる。それもこれも、ちゃんと終わりを見届けて、ちゃんと終わらせる人達のお陰である。

自然な生命の流れとして終わってしまう者達の手助けをするのが上記の人々であるならば、それとは逆に「社会的に悪であるから、自然な生命の流れを断ち切って終わらせる人達」も存在する。

死刑を決定する人達であり、死刑を執行する人達である。

無論、私はここで死刑制度の是非を論ずるつもりはない。ただ、そういう人達もいるというだけの話だ。

この人達は社会的正義の上に立ち、終わりを司る人達なのである。前者の人々に比べると能動的に終わりを司るのである。

終わりを見届ける人達は肉体的、頭脳的には大変な仕事であるが、精神的にはきっとそこまでのダメージはないはずだ。何故なら、生命は終わるものであり、その終わりの手伝いができるということは基本的に素晴らしいことだからだ。

その逆に、自ら他者の終わりを決定する人達は、精神的負荷がおそらく高い。というか高くあるべきだ、とも思ってしまう。何故なら、本来は終わらない生命を、信念に基づき他の何かの為に能動的に終わらせる行為だからだ。

適当にはできないし、簡単にもできない。世間からの批判の的にもなる。断片的な箇所だけを切り取れば、死刑執行とは殺人行為に他ならないからだ。だが、それでも社会の為になるから、人が人に暴力を振るうという行為をしているのだ。容易な事であるはずがない。

日常に終わりが見えない有難み

前者も後者も立派な仕事である。体も頭も心も全部すり減らして終わりを司る素晴らしい仕事である。

いつもは見えない世界を、いつも通り見えなくしている仕事。いつも通りの日常を保持する仕事。だからこそ、その有難みが我々には理解しにくい所があるが、それでも存在する物は存在するのである。

どんな生命にも訪れる終わりを、我々にも訪れる終わりを、日常的に直視することは精神的に辛い。だからこそ、それが仕事になるのだろう。

終わりマスター

終わりを司る人達に対してそんな呼び方をすることは実際問題あり得ないけれど、この世には終わりに携わることを生業にしている人達がいる。

アドセンス
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スマリッジ
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