世間と年齢は人の行動を制限する

年齢相応の生き方

自由気ままに生きる、という言葉にはきっと誰もが憧れる。
人間は社会と組織と年齢にどうしても制約される生き物だからだろう。

子供が公園でブランコ遊びをすることについて咎めるような人はいないだろう。
だが、いい年になった大人が大声を上げてブランコ遊びに興じていたのならば、もしかしたら誰かがそれを不審に思って警察を呼ぶかもしれない。

それに、会社の同僚やご近所さん等にその姿を拝見されてしまった暁には、その後の人間関係には支障が発生することだろう。

行動そのものが不可能になった訳ではないけれど、それでも人には心があるし、チームに属して生きる人がほとんどである。他人の目を全く気にしないで外の世界を自由に生きるなんてことは不可能に近いのである。

「その年齢になったのに、未だに何々をしているの???」
「その年齢なのに、まだ何々していないの???」

なんていう世間からの非難の言葉は、誰であろうと一度くらいは聞いたことがあるだろう。
そして、直接的な言葉ではなくとも、日常的かつ頻繁にこのような意見を耳にするだろう。

人格の使い分け

非難された人間は何らかの心理的影響を受ける。
・世間に非難されたから、世間の言う通りに変化する。
・世間に非難された腹いせに、他の人達にもそれを強制する。
・世間体という盾と矛を持って、社会的正義を振りかざす側になる。

その辺の変化は様々だけれど、共通する部分としては、世間の人間同士で互いに行動を縛り合うという結果をもたらすことであろう。

だからこそ、社会は多大な利益と発展をもたらすし、その犠牲として自由を支払っているのである。

だから、世間体というのは良いものであり、悪いものでもある。そういうものである。

人間が長期的に発展するためには、互いに縛り合わなければならない。だからこそ一丸になって行動できるのである。
人間個人が短期的に幸福になるためには、そこから解放される必要が多々ある。世間体が望む姿と自分の理想の姿は往々にして異なるからだ。

そんなメリットデメリットのせめぎ合いの中でも折衷案が、外出したならば世間体が望む姿を演じて、プライベートな空間ならば自分の理想の姿を追求しても良い。ってな感じだと思う。

人間一人が複数の人格を持っても良いと思うのである。
決める所をちゃんと決めれば、後は好きにすればいいじゃん、という話である。

筋肉だって、一つの部分だけを延々と使用し続けていたら疲労が蓄積されて壊れてしまう。
心だって、一つの人格だけを24時間どこでも使い続けていたら壊れてしまう。

「世間と年齢は人の行動を制限する」のは確かであり、それによって人類全体は幸福になっているのも確かである。
だが、「世間と年齢は人の行動を制限する」は特定の社会に属している時だけで十分である、プライベートやまた別のコミュニティに属するのならば、自由やまた別の制限があっても構わないのである。

アドセンス
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スマリッジ
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