正義とは、罪悪感なく他者を攻撃する為の心構え

「善とは何か?」、「悪とは何か?」という問答をすることが高尚だと思う人もいるらしいけれど、最近の私はそんな印象は受けない。余計な妄想を現実のように扱い、人間の行動を制限しているように見える。その上、そんな議論をすると自分が偉くなっているような勘違いを起こしているようなので、非常に面倒だと思う。

悪という概念を曖昧でもいいから共有して、遠回しな表現で世間一般に対して牽制することで、社会の秩序が保たれている可能性はないとは言い切れない。空想上の善を絶対的真実だと信じて社会貢献をする人々もいるのだから、一概に否定できるものではない。

ただ、個人的には善とか悪とかの議論は「各々で好きなようなやってくれ、こっちに干渉してくるな」というスタンスである。何故なら、「理屈と正義は何にでもくっつく」と考えているからである。悪も同様である。口先が器用な動く人間ならば、どんな高尚そうに見える事象も悪に変換できるし、悪辣極まりない事象でも善行のように解釈することができる。

理屈が立ってしまえば、後は感情論でしかなく、感情如何で善悪を決定できると社会に主張できると考えている人間は非常に少ない。「感情でそう思うから」という主張で心を動かされる民衆だって少ない。

善悪が感情で決定されるケースは多いけれど、それでも感情だけで善悪を主張できたりはしないのである。

社会に対して善悪を訴えるには、理屈が必要であり、その理屈は弁の立つ人間ならばいくらでも製造可能だ。

そうなると、「善悪ってのは人間が作り出した定義のない概念」ということになる。確実に言えることは、善と悪は対義の関係にある、ということくらいだ。

こんなことを皆が皆、考えているかは知らないけれど、正義を有効活用している人間は非常に多いという印象がある。

「自分は完全なる悪だ!」と思い込んで行動している人間に私は遭遇したことがない。

倫理的、法的な悪事を働きながらも「これは別の見方をすれば善行であり、腐った社会に対しての鉄槌である」みたいな主張をする。または「偽物の善に縋る奴らよりは、私達はまだマシである」という主張である。

自分に正義があると考えようとする、または、一般の人間よりは自分は優れている、と無理矢理でも思い込もうとしているのである。

個人レベルで見てもそうであるし、組織レベルで見ても「世界の為に避けられない犠牲」とか「今はそんなことより、世界平和について
目を向けて行動すべきだ」とか言って、自分の暴力的行為を誤魔化す。

そんなこんなを経験して私が思う正義の定義というのが「正義とは、罪悪感なく他者を攻撃する為の心構え」なんじゃないかと思う次第である。

結局、自分が害悪的存在だと思いたくないし、思われたくないのである。そこだけは人類皆共通している。だから、そのために罪悪感を消すための理論を構築して自分の脳内にセッティングする。その理論に適合しない奴らを悪と見なす。こうすれば罪の意識なく他者を攻撃することが可能になり、同時にその正義を社会に広めれば社会的地位を獲得することも可能になる。

「自分が正義だと思われたくて、他者を攻撃する場合」もあるし、「他者を攻撃したいが故に正義を身に付ける場合」もある。

つまりはその人がより良く快適に生きる為のマインドセットというのが正義なのである。

アドセンス
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スマリッジ
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