「終わって見れば、全てがどうでもよく、くだらないことである」から、色々と言葉を飾ったり、人助けをしたり、権力の階段を登ったりして誤魔化す。人同士で誤魔化し合って、人の価値を高騰させるのである。

終わって見れば、全てがどうでもよく、くだらないことである。

人間の全てに尊い価値があるとか、全ての命は平等だとか、そういう綺麗事は政治家が使う言葉であり、冷静に考えてみればそれはパフォーマンスでしかない。

価値というのは他者が感じるものであり、その他者の存在がくだらないものであれば、結局、その価値だってくだらない。

人間が人間に依存することが価値なのだから、人間なしには人間は価値を維持できない。つまり自己の価値を維持するためには、「価値を感じてくれる他者」に依存する必要がある。

価値を感じてもらう為に、価値を提供する。そういう相互依存によって、人間は尊さらしき物を保つのである。

人は一人では生きてはいけない。物理的にも、精神的にも。人間という生き物がこの世界から消え去っても、困る生物なんてあんまりいない。居ても、その分だけ喜ぶ生物もいるだろう。

人間の価値なんてものは、その程度のものだ。

その程度のものであり、その程度だと思いたくないから、色々と言葉を飾ったり、人助けをしたり、権力の階段を登ったりして誤魔化す。人同士で誤魔化し合って、人の価値を高騰させるのである。

人助けだって、「人に価値がある」と思い込む為に行われるケースがある。それを否定するつもりは全然ないけれど、道徳の授業で言われるような「純粋な善意」なんかではない。

というか「純粋な善意」って何だよ。こういうのは言葉の上だけの遊びなので、教養として身に付けさせるのは悪意染みていると思うのだが。

人助けにだって目的がある。目的とは利得のことである。利得の為に他者を利益を提供する、という行いは非常に正しい。
何の目的を持たずに行われる行為が「純粋な善意」と呼ばれるのだろうか?目的のない人間に意志なんかないだろう。ならば意のない奴に善がある訳がない。間違っている。

その辺も含めて、「人間には価値がある」とか「人間は善なる存在であり、さらなる善に向かっている存在でもある」みたいな事を思い込もうとしている「いじらしい努力」なのかもしれない。

人間だけが、自己について考える能力を持ってしまった。持ってしまったが故に、価値だとか善だとか意志だとか、そういった「あるようでないもの」に戸惑う羽目になった。その能力によって人類は動物の中で一番豊かで発展してきたのだから、それも一長一短なのだが。

まぁ、そんなアレコレを含めて、どうでもいいのである。

私や私以外の人間が終われば、人間を意識することはなくなるのだから。

終わって見れば、全てがどうでもよく、くだらないことである。

だが、人の価値を飾り立てたり、人の価値を高騰させたり、誤魔化したり。
どうでもいいことに全力を出したり、くだらないことを誇張してみたり。

終われば全て終わりだが、終わるまでは楽しかったり、面白かったりするのである。

死ぬまではそれを思い出して幸せな気持ちになれるし、死ねば全てが終わりなのは全ての生物共通のものなのだから。

それで仕方がないし、それでいいんじゃないだろうか。