同族嫌悪から思う「ディズニーランドに鏡がない理由」について

同族嫌悪という言葉がある。
自分と似た人間を嫌悪してしまう現象である。それも無意識の内に、自分自身に似ているとは気づかないままに。

そして、他者から同族嫌悪だと指摘されても頑なにそれを認めたがらないのも特徴だろう。
「自分だけは絶対にそんなことない!」と皆が思うのである。

他者は自分を写す鏡とはよく言ったものであり、嫌悪する対象というのは自分が強く意識している箇所だったりする。

「自分と真逆」か「自分と似ている」か。人が人を強く意識する瞬間とはそういう時である。人間は極端な生き物なのだろう。

同族嫌悪という現象をはっきりと自分の中に発生している事を認めて、「自分の嫌いなところ」を明確に見定めることができたのならば、きっと自分を変化させるキッカケになるのだろう。

だからこそ、「他者は自分を写す鏡」なのだが、誰もが変わりたいと思っている訳でもないし、誰もが鏡を欲しがっている訳でもない。

ディズニーランドには鏡が設置されていないという噂を聞いた。夢が壊れるからだそうだ。あれだけの儲けを出しているディズニーランドの思想なのだから、きっとそれは人間の本質だ。

自分の姿は美しいものだと思っていたいのである。妄想であっても美しいものを信じたいのが人間だ。
嘘であっても幸せならばそれでいい、と無意識に思って生きている人は多いだろう。

なのに、なのにである。

急に出現する現実とは残酷であり、不愉快であり、嫌悪の対象なのである。醜い自分を写す鏡なんて存在して欲しくない。叩き割ってしまいたい。そう思うのは自然だ。

「その醜さを見て自分自身を変化させるキッカケにすればいいじゃないか!」と夢に酔いしれた千鳥足人間は言う。

全くの間違いである。

生きる事は老化することであり、生きる事は時に醜さを必要とされる。そして私達は今迄生きてきたのである。その証を鏡は写す。

鏡の前の姿を嫌悪して、綺麗に美しくあり続けようと思った時、果たして自己の生命は保たれているだろうか?

意識的に問いかけることではないが、無意識下では即座に結論は出ている。

肉体的に美しくあり続けたいのならば標本になるか剥製になるかである。

精神的に美しくあり続けたいのならば霊体になるか即身仏になるかである。

人間は生きたいと思う生き物だ。例え醜くあっても。

だから、同族嫌悪は仕方がない。見たくない鏡とは距離を取るのが現代の賢い生き方である。

鏡の前の己を変革するのはリスクが高いし、鏡を壊せばそれ社会的な終焉を意味する。

この世には見なくていいものがある。それで終わりで良いのである。

鏡を見つめ続ける事が叶う人間は、諦観の心を持っている者だけである。

アドセンス
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スマリッジ
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