物事の大半は体次第と思ったけど、実際、精神も大事である。なのに最初の結論ありきでそれに沿った話やデータを用意しようと思う人間のエゴって奴は厄介である

元気があれば何でもできる。偉い人は言いました。

元気があればどんな事にでも取り組むことができるのである。困難を試練と捉えて、苦痛を成長の機会だと捉えることができるのも、元気のお陰様である。

ならば元気がなければ何にもできないのである。元気がなければ、この世のありとあらゆる物事が灰色に見えて、聖人君子からの寵愛でも迷惑な嫌がらせとして認識してしまう。

要は物事の捉え方は元気次第なのである。そしてその元気の源は体次第である。

元気というと気という言葉が入っているから気持ちに依る所と考える人もいるだろう。誰かの言葉に傷つけられた時、途端に元気を失う事もあるのだから、気持ち次第で元気が出るかどうかが決定される、と考える人がいてもおかしくはない。

それは正しい。だが、それは物事の一面でしかない。

不屈の精神を持ち、意気揚々と過酷な物事に挑戦したとしても、自分のレベルがそれに全く適していないのならば、絶対に上手く行かないのである。登山なんかでも、肉体レベルがそれに達していないのならば、最初の気分はどこへやら、絶望が心を占拠する。心の前向きさは完全に消え失せている。

つまりは、肉体がエネルギーを消耗し尽くせば、精神的な気力もなくなるのである。

逆に精神的な気力がなくなっても、肉体が完全に力を失う訳ではない。無論、精神も肉体のパフォーマンスに影響しない訳ではない。だが、精神のダメージが絶対的に肉体的な動力を失う訳ではない。

精神的ダメージによって、気が変になってしまっても、夜道を徘徊することくらいはできる。

心が折れてしまって、命を諦めようと決定しても、首を縄で縛り付けるだけの肉体的行動は可能だ。

肉体は精神に影響し、精神も肉体に影響するけれど、それでも優位に立っているのは肉体だと考える。微妙な差ではあるが。というか、こうやって考えている内に、どっちも対して変わらないのではないかと思ったけれど。

よくよく考えれば、肉体がエネルギーを失っても、悔しさとしての精神エネルギーが湧き出たりするからな、その辺は実際対して変わらないのかなぁ、とも思ってしまう。

まぁ、あれだ、最終的に何が言いたかったのかと言うと、肉体は日々トレーニングや管理によって、高いレベルをコントロールできるけど、精神についてはそれが難しいし、人間ってのは肉体で構成されているのだから、肉体を鍛えることを主眼に生活したらいいんじゃないかなってことである。

だったら、精神だって瞑想とかで鍛えられるじゃんって感じである。

訳が分からん。結論を先に決めて物事を話そうとすると、それに沿って過程やデータなんかを並べようとしてしまう人間の性があることは分かった。

だからあれば、肉体も精神も大事である。両方鍛えよう。

アドセンス
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スマリッジ
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