大人になっても希望を抱き続ける人ってのは、普通の人と何が違うのだろうか?

子供の時のような無邪気で純粋でやる気に満ち溢れた精神状態が欲しい。

今現在の私の知能や体力程度のものであっても、そんな精神状態があれば結構な幸せと社会的地位と金銭が手に入るんじゃないだろうか?と思う。

いくらスペックが高かろうが目的がなければ役に立たない。動かなければ塊としか称されない。

希望さえあれば絶対に成功するなんて言わないけれど、欠片ほどの希望もない人が成功するとは思えないし、そもそも仮に成功できたとしてもそこに意味はあるのだろうか。欲しない物を手に入れても何にもならないだろう。

だからこそ、子供の頃の純真さ、希望ってのは大人であっても持っていたい、欠片であってもいいから。

そういう気持ちはどうやったら取り返すことができるのだろう?

決して綺麗ではない現実と、成果ばかりが求められる実情において、そんな気持ちを抱き続けることが可能なのだろうか?

希望を捨てることが、この世界で生き続ける為の最適化であったから、我々は希望を捨てたのではないか?悲しい推論が積み上がってしまう。

夢を抱えては現実を進めない。何かに期待しても叶わない。無邪気でいたら出し抜かれる。純粋ならば騙される。やる気があっても馬鹿にされる。

そういう体験が積み重なってきたからこそ、我々は今の我々に変化したのではないか?

希望を抱けるに足る現実がなかった。だから希望はない。それだけの話なのかもしれない。

だが、希望というのは現実を否定して理想に辿り着こうとする欲望である。希望を持ち得るタイミングというのは現実に不満を持っている状況だけなのである。

だから、本来は現実に不満を抱えている人間こそが希望に溢れているはずなのだ。

とは言っても、実際問題、現実に不満を抱えている人間だからといって希望で目をキラキラさせている訳でもない。

希望を抱く人と抱かない人の違いは何だろうか?

現実に大変な事ばかりでも希望を抱く人がいる。
現実が大変な事ばかりで希望を失う人がいる。
現実に満足しているが故に希望がない人がいる。
現実に満足しているのに希望で目をキラキラさせている人がいる。

成程、そうやって考えると、希望というのはまだ見ぬ理想を思うが故の精神状態ではあるが、そこに現実は関連していないということである。

希望を持つかどうかに、現実は関係ない。

じゃあ、何が関係あるのだろうか。

子供も方が希望で輝いている人は多いが大人でも輝いている人はいる。

なら年齢も希望には関係ない。

ここで登場すべきなのは、哲学的名言ではなく、案外、脳内ホルモン的な要素だったりするのだろうか。

例えば、ちゃんと運動して、日光を浴びて、健康的な食事を取るとか。なんて思う。

確かにそう言われれば、息が上がる程に運動していないし、太陽光を浴びない日もあるし、食事は自分の好みでしかない。

部屋でグチグチと考えるよりも、外に出て運動して腹を空かせてたくさん食べれば、こんな問題には直面しないかもしれない。

アドセンス
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スマリッジ
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