「働きたくない」という感情は厳密には間違っていると思う理由

働くって何だろうか?
働きたくないと考えることは多々あるけれど、具体的に仕事って何だろうという事についての考えは浅い。

何をどうすれば深くなるのかも一切知らないけれど、とりあえず私が知っているのは「金を獲得した動作が仕事である」という事くらいである。

1年毎日8時間頑張っても1円にもならない行為を仕事だと認める人は少ないだろう。

逆に1年に1回だけ軽く誰かと話をするだけで1億円を稼ぎ出す行為は仕事と呼ばれるだろう。
この場合、話は商談と呼ばれ、有能な人間として認知されるだろう。

極端に言えば、金を稼げばそれが仕事なのである。それ以上も以下もない。

高尚な仕事なんて表現が世の中には存在するけれど、仕事であるかどうかに高尚かどうかは関係ない。
そこを勘違いすると、スーツを着てマナーを厳守して客先にペコペコしないとお金を貰えないとのでは?という思考に凝り固まってしまうことになる。

違うのである。下劣な仕事も高尚な仕事もあるのかもしれない。区別の仕方を私は知らないが、それを勝手に切り分ける人はいる。

だがそれは仕事をするに当たっては、金を稼ぐに当たっては不要な区別なのである。

結局は仕事をするに当たっては最終目的は金なのである。誰にとってもそうである。
社会貢献がしたいのならば、ボランティアをすれば良いのである。
そこを無闇に混ぜるから、やらなくてもいいことをやって辛い思いをするのである。

だから、仕事をするにおいて、理念だとか社会貢献だとか、そういう事を最初に考えるのは間違っている。
最初に考えるべきは、この行為でどうやって金銭を得るか、という事である。

スーツを着ることも、マナーを守ることも、金銭の為の過程である。

そのはずなのだが、不思議な事に大半の一般庶民というのは真面目な格好をして真面目な感じの事をやっている事に対して、ある種の安心感を得ているような気がする。

皆と同じだから安心であり、皆と違う人を虐げることで更に安心しているようである。

金銭を得るという行為に無駄な動作が含まれてしまっている。それは社会的帰属感という物であろう。
その為の無駄なエネルギー消費こそが効率よく金銭を稼げない理由であり、働き続けなければいけない理由なんだろうな、と思った次第である。

とは言っても、実際問題、人々は「働きたくない」と愚痴るけれども、それは程度の問題なのだろうとも思う。

ある側面では、人は「自分が存在している意味」とか「退屈を紛らわせたい」とか「社会に帰属している感覚を得たい」とか、そういう目的で仕事を行っていたりもするのである。

その辺を総称すると、「働きたくない」というのは厳密には間違っていて、正確には「好きな時に働きたいし、好きな時に休みたいし、それでいて十分な金銭が欲しい」というワガママな欲望が浮き上がってくるのである。

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