死という現象は存在しないのではないか?観察はできるが、実際問題、体験した記憶を残すのは不可能なのだから

やりたい事がない訳じゃない、やる気力がないのだ。

人生に活力も希望もないのに生きている人がいたのならば、それは「いつかやる気力が湧いてくる機会」を待ちわびているからなのではないだろうか?

そんな訳ないか。単純に死ぬのが怖いから生きているのだろう。大半は。

死ぬのが怖いという話はよく聞くけれど、生まれるのが楽しいという話は一切ない。これは不公平ではないだろうか?

仕事は大変だけど、仕事終わりの食事は最高だ!という、陰と陽が釣り合っている話については納得ができる。平等でありバランスが取れているのだから良いだろう。

しかしながら、「生まれるの超気持ちいい!何度でも生まれたいぜ!」という感想を聞くことはない。というか記憶がないのだろうが。記憶がない内に最高に体験をさせました!というのはちょっと詐欺チックな感じがして卑怯ではないだろうか。

逆に考えるのならば、生まれた時の感想がないのならば、死ぬ時の感想もないのかもしれない。

まぁ、確かにそれはそうだろう。死んだ後に「あー死ぬの超辛かった、、、もう二度とやりたくないわー」なんて事が言われることもない。生まれた時の喜びの感想がなければ、死んだ後の苦しみの感想もないのだから、その点は平等だろうか。

いや、違う。平等なんかじゃない。体験についてはまるで平等じゃない。死という体験は「気づかない内に死んでた」というケースを除けば必ず通過する体験であるが、生まれた時の体験は忘れているのだから不平等である。

それも違うな。死んだ記憶は残らないし、生まれた記憶も残っていない。記憶として残存していない物を体験したと呼んでいいのだろうか?

極端な言い方をすれば、死んだ記憶はどこにも残らないのだから、死という現象は観察できるけれど、体験することは不可能なんじゃないか?

だって、「俺は死んだことがある!」と言い張れる奴はこの世には居ないのだから。

そう考えると、死という現象存在しないし、生という現象は覚えていないし、ということでフィフティ・フィフティなんだろうか。

訳が分からん。

まぁ、仮に死が存在しなくても、死を恐怖することができてしまう時点で、全然フィフティ・フィフティじゃないよね。

アドセンス
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スマリッジ
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