自分の為に優しさを使えていない人間が搾取された結果が「死にたい」というつぶやきなのではないだろうか?

死にたい系のつぶやきや悩み相談なんかは非常に多い。

ツイッターを見てもそうだし、悩みを吐露してそれを他の人が回答するサイトだってある。

そういう死にたい系の文章というのは、本当に物凄い量で発生しているけれども、その内容はほとんど同じだ。辛い、死にたい、どうにか助けて欲しい。それだけである。

それを見る度に、人間って何の為に生まれてきたのだろう?と思う。ただ生きる為に辛い思いをして「何の成果も得られませんでしたー」みたいな悲しい状況で生涯を終える人なんて、ごまんといるのである。その途中経過が、ツイッター等にぶちまけられている「死にたい」メッセージだったりするのだから、なんとも複雑な気分だ。

望んで生まれてきた訳ではなくとも、生まれたからには幸せになりたいし、不幸にはなりたくない。それは全ての人間に共通している物だが、幸福は相対的な面も多くあり、それが故に争いや蹴落とし合い、勝者や敗者が生まれて、敗者の喘ぎがツイッターに溢れる。まぁ、勝者の歓喜もツイッターに見えるのだが。

自分が関わっていない世界の片鱗を覗き見ることができるようになった現代だが、それは必ずしも良いことではない、ということなのだろう。

考えなくていい事まで、考えるようになってしまったのではないか?

ただ、陽の光を浴びて、軽く運動して、そこそこの食事を摂ることができれば、それで人間は満たされるはずなのに。他人の不幸や、さらなる幸福や、社会的義務や、将来の不安。

そんなこんなを脳内にぎっしり詰め込むからこそ、幸せになれないのに。

冷酷かつ怠惰な意見ではあるが、上昇志向の事も、社会貢献の事も、家族の事も、将来の事も、一切考えなければ、すぐにこの国の人間の大半は幸せになれるのである。希望に満ち溢れるのである。

上昇は限界はあるかもしれないが、今の世代では到底到達できない。
貧しい人々や辛い人々は溢れかえっていて、個人の力ではどうしようもない。
(仮に、今この世界にいる人々の貧困や不幸を解消できたとしても、その人々が人を生み、また新たな貧困や不幸を生産するのは分かりきっている)

家族も将来もそうだが、結局、個人の力では完全なる解決は不可能なのである。絶対に。自分が完全なる解決をしたと思って主張しても、どこぞの「重箱の隅をつつく人間」が文句を付けて、理想はさらに膨らむのである。

悩みも憂いも捨てて、幸せになる為には、他人に対して冷酷になり、怠惰な自分を許容することが大事なのである。

言ってしまえば、優しいからこそ不幸になる。自分が幸せになる為だけに優しさを使えていないのが問題なのである。

協調性や思いやりは、社会で生きる為には重要なスキルだが、それは「巡り巡って自分を幸福にする為に優しさを使える」ことが前提条件である。

「優しい行為の全ては絶対的に正しい」とか、バカな事を考えていると、他人から搾取されて、適当に褒められて舐められて捨てられるだけである。

その結果が、死にたいではないだろうか?

自分の為に優しさが使えているか?自分の為に努力できているか?自分の為に考えられているか?

アドセンス
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スマリッジ
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