死のハードルは安易に引き下げるべきではない。死ぬ権利は簡単な問題ではない。

新たな生命を望むから誰かに妊娠の手助けを依頼する場合がある。
長く生きた生命を終わらせたいから、誰かに殺人の依頼をする場合がある。

生かすのも殺すのも、簡単にはできないし、人間一人の願いでどうにでもなるものではない、ということなのだろう。

自分で自分を殺すという事だって難しいのだ。ならば他人の生命を思い通りに動かそうなんて、もっと難しいだろう。

喜びに溢れた世界に誕生させる為に奮闘したり、苦しみに塗れた人生を終わらせてあげる為に尽力したりと、面倒な生き物であるなぁ、としみじみ思う。

人生の美味しい部分だけを、皆、欲しがっているのだ。だから、より良く生まれてより良く死にたい。その辺のコントロールも、これからは一層容易になっていくのだろうか?

生命の誕生に関しては、技術の向上に伴って容易になるだろう。

だが、死ぬ権利については難しい。簡単に殺す技術そのものは複数存在する。実践そのものに費用が掛かる訳ではない。むしろ、延命し続けるよりかはよっぽど安上がりだ。

だが、本人が本当に死にたいと思っている場合だけに死ぬ権利が行使できる訳ではなくなってくる事が問題なのである。

死ぬ権利の行使を周囲から強要される場合だってあるだろう。何かの間違いでそれが実行されてしまう場合もあるだろう。誰かの悪意で情報改ざんが行われる場合だってあるだろう。

それに容易に死を選択してしまうケースだって増えるだろう。少し耐えれば良い未来が待っているかもしれないのに、諦める方向へ傾いてしまうかもしれない。

だから、死へのハードル調整は熟考に熟考を重ねなければいけない。どの高さに死のハードルを置くことで、より幸せになれるか、より不幸を回避できるかが決定されるのだから。

アドセンス
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スマリッジ
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