薄弱な正義は、いつも他者の正義に無自覚である

ルールを悪用してリーダーを滅ぼそうとする人間達にだって、残念ながら正義はある。

正義の定義はいつも曖昧だが、確実なのは悪人達は自分こそが正義だと思っていることである。

ある立場からすれば悪事であろうが、こちら側から見れば善行なのだから何の問題もない。そう思えてしまうものなのである。

綺麗な心で行われている正義だと自分が認識している行動だとしても、逆の価値観を持っている人からすれば邪悪な悪事なのである。

結局はどこから物事を見るか?という話になってしまう。絶対的な正義はないけれど、自分の正義は絶対的だと思ってしまう生き物なのである。

だから、正義というのは自分の理想像でしかない。それを現実世界において実現する為に、古来から人は争ってきたのである。

遥か彼方は棒きれで殴り合い、ちょっと昔は爆弾を飛ばし合い、現代は抽象概念で人を苦しめたり操ったりして戦っている。

武器が変わっただけで、戦争はまだ続いている。

だから、自分が悪人だと認識する相手に「倫理的な誤りを指摘して憤る」のは間違っている。

恥を知れとか、胸に手を当ててとか、正義はないのか?とか。そういう憤りは間違っている。

相手側からすれば、ちゃんと正義を実行しているのである。思想信条がまるで違うから悪に見えるけれど、それは正義である。勘違いしてはならない。

よって、憤る方向は「自分の正義を如何にして拡大するか」という観点に向けて進行させるべきなのである。

正義というのが「ただの自分にとっての理想」であり、それは人の数だけ異なるものがあるものであると認識するのである。

実に利己的であるか、ということを認識した上でその利己を最大できるかを冷静に考えるて行動すべきである。

そういう事をせずに、自分の正義というものをはっきりと認識しないで、他者に憤ってストレスを発散させる為だけに倫理とか正義とかを利用するような性根は、酷く薄弱な正義と言わざるを得ない。

「何も行動はしないけれど、絶対的正義に包まれる感覚が欲しいし、他人を批判してスッキリしたい」という思想信条もまた一つの正義なのだろうが、やはり薄弱である。

まぁ、そういう自己を認識するのは薄弱な人間には大打撃なので、する訳がないのだが。

綺麗事は良い。自分を汚れが隠せるから。

正義は楽だ。自己肯定が単純化できるし、罪悪感なく差別ができる。

ただ、そういう薄弱な正義を持つ人間がこの先この世の中を生きていけるのか、となると知ったことではない。

アドセンス
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スマリッジ
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