形而上的な考えを一切捨てれば悩みは消え失せる。だが彩りはなくなり無機質である。

やるのが面倒でも、やりたくなくても、やればそれなりに鍛えられるのである。

筋トレだって、嫌でも辛くても、やれば以前よりか筋肉が強くなる。他の分野でも大体同じである。

だから、面倒だと思っても無理やり頑張ることに意味がないとは言わない。だが、今日無理やり頑張った結果、明日以降がまるで頑張れなくなってしまっては間抜けである。元も子もない。

という訳で、文章を書くのが面倒な訳である。

というか、なんで書いてんだって感じだ。意味が分からない。

なんで生まれたのかも分からないし、なんで生きているのかも分からないし、なんで書いているのかも分からない。

意味不明。

生まれた理由とか、生きる意味なんては、個々人による味付け次第で何とでも言えるので、そういうスピリチュアル的な話にはまるで興味がない。

まぁ、そういうスピリチュアル的な要素を省くのならば、親が生んだから生まれたのであり、生き続けるように人体が設計されているから生きているだけの話である。

だから、書いている理由も書くように私が構成されているから、書いているだけ話なんだろう。

仮に私が複雑な思考を行った所で、根っこにある内容は非常に無機質で単純なのだろう。

そう思うと、なんか切ない。

まぁ、切ないと思う私の根本はそれでも無機質なのだが。

切り詰めて考えれば、私は肉と骨である。

観点の問題だよな。形而下の視点で考えれば、人間は全て肉と骨と水分である。

形而上で考え始めると、多種多様、それこそ70億通りの生き物が存在するのかもしれない。

彩りが生まれるのは形而上である。それと同時に形而上的思考により悩みも生じるのである。

光が生まれれば影も出るのだろう。まぁ、悩みも彩りの一種なのだろうが。今迄に悩んできた全てが、今のワタシにとってはどれもかけがえのない大切な思い出だよ!みたいな。少年少女漫画にありがちな。

悩みたくなきゃ、形而下で全てを考えればいいし、彩りが欲しいのならば悩みを覚悟の上で形而上の世界に飛び込めばいいのである。

で、なんだっけ。なんで書いているのか?みたいな話だ。

知らんわ。そんなの。

アドセンス
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スマリッジ
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