マゾは予測能力によって後々獲得できる喜びを苦痛を浴びた瞬間に感じるのかもしれない

無理やり何かをやろうとするのは大変である。

だが、頑張った後の爽快感というのも捨てがたい。

不思議な物で、人間ってのは抱えている負と、与えられた正の差異によって喜びが決定されるようである。

与えられる喜びが100であっても、抱えている負が0、というか正を80くらい抱えていると、20くらいの喜びしか感じられない。

だが、抱えている負が80くらいあると、10くらいの正でも、90もの幸福を感じることができる。

何日も食べるものがなくて苦しんでいる時ならば、どこぞの寂れた食堂の安い定食にだって感動できるのである。

山頂で食べたおにぎりが今迄食べた物の中で一番美味しかった、と言った人がいる。

食事の喜びは、食事内容だけでは決定されないのである。

だから、頑張って何かを行う、という苦痛も捨てたもんじゃない。

そうやって抱えた負は、程度によるが、後々大きな喜びとして返ってくる可能性があるからだ。

運動した後のご飯が美味しいから、運動する、なんて人間はそこそこいるはずだ。

だったら、今の苦痛も悪くない。

そうやって、人はマゾになっていくのだろうか。

マゾの方々は、人間の予測能力によって「後々獲得できる喜びを苦痛を浴びた瞬間に感じる」からこそ、マゾと呼称されるのではないだろうか。

言ってしまえば、予測能力の過度に発達した結果であり、言ってしまえば脳のバグである。

苦痛が後で快感に変わる。

だったら、今の苦痛がそのまま快感でもいいじゃないか。

そういう論理だろうか。

人間の進化はえげつない。

アドセンス
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スマリッジ
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