万能に憧れる事は多々ある。

なんでもそつなくこなす姿はエリート、有能を連想させるし、つまづく事がなく全てが進むというのはストレスも少なくて良いのだろうなぁ、と考える。

精神的なストレスは皆無だろう。

その上で成績は上々だから、収入はそれに比例して上がる。

だからそんな人は物凄い才能があるのだろうと考えてしまうし、努力だけではどうしようもない壁というのがあるのではと、考えさせられてしまう。

有能な人間というのは、そうでない人間からすると、絶大な差を感じるものなのだろう。

だから、私はなんでもできる人になりたいと思っていた。

しかしである。

やはり人の考えは時間が経過するにつれ、自然と変化していくものである。

今は、なんでもできる人に私はなれないと思っているし、なる必要もないと思っているし、なんでもできない人というのは案外、才能の無駄使いなのではないかとまで考えている。

どうしてこんな考え方になったのか?

それは単純に僻みから来るものかもしれない。

酸っぱい葡萄の木という奴かもしれない。

自分にできない事は、自分にとって必要ないもの、もしくは不利益なもの、さらにはそもそも存在しないものだと無理矢理認識しようと思っているだけなのかもしれない。

そんな醜い思考が頭の中を巡って完成された思想なのかもしれないけれど、それはそれで仕方がないのである。

なぜなら、私はもう既にそう考えてしまっているし、その考えの方が今後、上手に生活できる確率が高いのも確かであるからだ。

成功確率が限りなくゼロに近く、それに対処する具体的な方法も見つからないのであれば、挑戦といえどもマイナスにしかならないことがある。

「なんでもできる人はなんでもできない人と同じ」なのであると今の私は考えている。

どうしてそう思ったのか?

人間は厳密に言うならば独立ができない生き物であるからだ。

だから、自分1人で全てをまかなってしまおうと思う事は、人間そのものの性質から逸脱している。

自分の性質と自分の行動が逆方向を向いてしまっているならば、それが上手に進まないのは当然の結論だろう。

そういう考えからすると、自分1人で全てをやってしまおうという考えはブレーキに相当してしまう。

言うまでもなく一日は24時間である。

だから人間が一日で行動できる時間の最大は24時間である。

これは絶対に揺るがない事実である。

よって、人間はその1日24時間の中で行動をしなくてはならない。

走る事に1時間を費やしたならば、それ以外の行動はできない。

仮に走りながら食事をしたとしても、それ以外の行動はできない。

何かをすれば何かができなくなる、という法則は、いくら工夫を凝らした所で逃れる事はできない。

複数の事を同時にできるようになっても、同時にやっている事以外の事はできないし、複数の事に分散してエネルギーを使用するので、1つ当たりの密度は低下する。

どの道、全ての事を完璧にすることができない、というのがこの世の法則なのである。

その事実がわからないで完璧にやたらこだわる人間は成長速度が遅くなる。

どうにもならない事をどうにかしようとしても、やはりどうにもならない。

人間の悲しい性質としては、無駄な事にでも労力と時間をいくらでも注げる点にある。

そのどうにもなら法則は有能な人間にだって適用される。

なんでものエネルギーを注ぐ人間は、それなりになんでもできるようになるが、習熟度、経験値は平均的に少なくなる。

そして一つの分野当たりの成長速度も遅い。

物凄い才能を有している人間でも、なんでもできてしまう事によって、なんでもない人間として終わってしまう事になってしまうのである。

だから、ほとんど何もできなくてもいいから、何か一つでも鋭く光ればよいのである。