おしゃれな言葉を使えば文章が上手と言えるのか?

あれか、叙情的とかプロパカンダとかアジェンダとかパノプティコンとか、贔屓目とか出鱈目と鱈子とか斑鳩とか、そんな感じの言葉を使えば文章が上手だった事になるのかね?

とりあえず画数の多い感じや、発音がカッコイイ英語なんかを使えば「それで良し!」とはならないのは自分自身でも十分に自覚している。

まぁ、そういう人達の事を痛い人というのだろう。

要するに、表面的な振る舞いだけを真似しても技術は獲得できないという話だろう。

文豪の文章を暗唱できるからといって、文章が上手になったとは言えない。

有名な歌手のグッズを身に着けたからといって、歌が上手になる訳でもない。

みんなの前で人気俳優の名セリフを吐いた所で、鼻で笑われるのがオチである。

どうにも私は何かを見たり聞いたりして、上手だと感じる事ができても、それがどうして上手なのかという事を言葉にして説明できないようである。

言語化できなければ練習する事ができない。

練習できなければ、上達もしない。


とりあえずはスタートダッシュには有効だが、継続的な観点からすると無策にも等しい

「とりあえずたくさん文章を書けば文章が上手になるだろう」

「とりあえずたくさんの文章を読めば良い文章が書けるようになるだろう」

そんな考えなしの結論を出して深く追求するのをやめている。

ロクに物事を深く追求しない人間が上手な文章を書けるのかどうか?

それを自分に問いただせば、簡単にその結論が間違っている事がわかりそうなものだが、わからない事をいつまでも考え続けるのは苦痛でしかないので、いずれ思考は停止する。

明確に方法が理解できない人間は漠然と頑張るしかない。

「漠然と頑張る」

なんかこの言葉を見ただけでも、そんな行動を取っている人間が上手くいく気がしない。

「漠然と頑張る」=「なんとなく頑張る」

みたいなイメージがスゴイある。

まぁ、変換の仕方によれば「がむしゃらに頑張る」みたいな青春マンガの主人公が使いそうな表現にもなるだろうが、どの道、向かうべき道がわからないままに足を進めているのだから、進む速度は遅いだろう。

「漠然と、抽象的に、大枠で」

そんな捉え方しかできない人間はやはりどんな道においても上達はないんじゃないだろうか?

とはいえども、具体的に何をどうやったら文章が上達するか、という正解はやはり不明なのである。
(無論、回答する人間はいるけれども、それが正解だとは限らない。)

だから結局の所、まず最初は「がむしゃらに頑張る」しかないのだろう。

細分化と記録、それを容易に叶えるツール

だがしかし。

それで終わってはいけない。

問題はその先ではないだろうか?

何をどれだけ頑張ったのか?

それによって何ができるようになったのか?

できるようになった事で何ができるようなるのか?

といったように、やったことに対して詳細な情報を取得する事は可能である。

やったことに対して多くの有用な質問を用意しておき、その質問を都度都度実践することは確実に上達への道になると思う。

「何をやればいいのか?」

を最初から完璧に理解するのは困難である。

しかし、「周囲にある物が何であるか、そしてそれが何に使えるのか?」

という事を観察して知識を収集するくらいの事は誰にだってできる。

そして一つ一つの何かについて詳細な情報が収集できたのであれば、自然と自分のいる場所は理解できるし、これから進むべき道も見えてくるだろう。

漠然としか理解できない、という事は詳細には理解できていない、という事なのだから、詳細に理解できる事を増加させていけば、必然的に「文章が上手」という事も具体的に説明できるようになるだろう。

そういう意味で読書感想文とかも、自分がこの本を読んで何を感じて何を思ったのか、そしてどんな教訓を得たのか、という「何かについての詳細な情報を言語化する」という役割を果たしていたのだなぁ、と今更ながら感じさせられる。

文章が上手になりたいのならば、とりあえず感想文を書けば良いのかもしれない。