質の悪い文章ってそもそもなんだろう?

短い文章量だとダメとか?

でも300字くらいでも実生活に役に立つ知識を存分に提供することはできるし、名言なんかの類は何十文字という文量なのに多くの人を感動させる。

つまりは質の悪い文章ってのは短い文章って事ではない。

じゃあ、あれか。役に立たない文章ならそれは質の悪い文章ってことになるのかね?

とは言っても、ある人にとって役に立たなくても、別のある人にとっては非常に有益な内容だったりすることは、よくあることだろう。

つまりは一つの文章について、多くの人が「役に立たない!」と感じたとしても、少数の人達に「有益!」と判断されるのならば、それは一概に質の悪い文章とはいえないだろう。

ならなんだろう?読みにくい文章とかなら、質の悪い文章と呼んでもいいのだろうか?

でも、読みにくいかどうかが、その文章そのものの質を左右するというのはどうだろうか?

それはラッピングやら整形が上手にできていないだけであり、「文章の質」という事柄を揺るがす要素には成り得ないと思われる。それはまた別の話だろう。

そう考えると質の悪い文章って言葉の意味がまるでわからなくてなってくる。なんだよ、質って。

抽象的でカッコイイ言葉を使って何かを批判すると気持ちが良いのかもしれないが、まるで実体を伴わないから、まるで無駄である。

それこそ、そんな内容が存在しないような批判こそが「質の悪い」批判なのではないだろうか?

と、するならば内容が存在しない文章ってのが「質の悪い文章」なのかもしれない。

内容がないのか、その人には見出だせないだけなのか?

内容が存在しない文章ってのもまた不思議な話である。

そこに文章がある限り、そこに内容は存在するはずだ。

よって、そこに内容が存在しないと考える人にとっては、「内容が見出だせなかった」だけの話であり、やはり他の誰かにとっては「内容の見いだせる文章」であり質の良い文章なのかもしれない。

そう、つまりは「見る側の都合」によって物事の評価は変化するのであるから、提供者、ここで言う所の私がその文章の価値を勝手に断定して、ローカル環境に封じ込めておく事はとんでもない機会損失だと言えるだろう。

私が質の悪い文章だと思っていても周囲の人間はそうは思わないかもしれない。

そして、私が質の悪い文章だと思っている内容でも、オンラインに掲載することによって隠れた需要を見つけ出す事ができるかもしれない。

商売において自分のものさしで物事を評価するのは危険

商売に限らない話だが、自分が良いと思う物を提供する事ではなく、相手が良いと思う物を提供する。だから喜ばれるし読まれるのである。

自分ではまるで自信がないとか、そんな事はどうでもいいのである。相手がどう思うか、それを知るために私は様々なパターンのアタックを何度も何度も繰り返さなくてはならない。

相手が何に喜びを感じるのか?それがわかるまでは実践と研究の連続である。

だから、質の悪い文章というふんわりした意味の何かに怯えて筆を止めている暇があったら、即座になんでもいいから文章を書き連ねれば良いのだと思う。

少なくても、「何がウケないのか」という貴重な情報が手に入るし、確実に脳みその文章的な部分は活性化するだろう。