腹筋を八分割したい。男は腹筋に筋肉の理想を見る。


腹筋割りたい

割れた腹筋は男の理想である。その辺に異論はないだろう。というか認めない。

なぜかわからないけれど、腹筋が八分割すれば私の人生は爆発的に覚醒して突然変異でも起きたかのごとくモテはじめるのだろう、という確信がある。

覚醒的かどうかは定かではないが、腹筋が割れていた方がモテるってのは確かだろう。ブヨブヨの肉体に異性としての魅力を感じられる人は少数派である事は確かだ。

だから腹筋を割りたい。バッキバキに割りたい、そしてモテたい。これは男性全ての願望であることに違いはない。


腹筋が割れない

だが、割れない。おかしい。なぜだろうか。何かが間違っている。きっと世の中が間違っている。世界は狂っている。

最近は一日200回くらい腹筋をしているのだが、それでもなんら変化はない。いつも通り弾力性のある肉の塊が私の周囲にまとわりついている。

腕立てをした結果、腕は太くなった。背筋をした結果、背筋は太くなった。

筋トレを始める前に比べたら、まるで見違えたような自分に出会えているのも確かだ。

でもおかしい、腹筋だけおかしい。腹筋をしたら腹筋が太くなった。なんかおかしい。違うよ、そういうのは求めていない。

腹回りというのは脂肪やらの人間が生き延びるためのエネルギーを貯蔵する場所でもあるから、比較的この部分が痩せにくいのは当然なのだろう。

違う観点から見れば、脂肪がまるで付いていない状態ってのは生存においては劣等である証拠なのだから。

人間の生存本能的に、腹筋とは割れにくい箇所なのだろう。

でも割りたい、生存本能とかどうでもいいからモテたい。それが男の本望だと思う。

だから今日も腹筋をするのだろう

どうにも最近聞いた話だと、糖質制限とかをするとみるみるうちに痩せていくらしい。

まぁ、人間にとって非常に大切な成分をまったく取り込まないのならば、当然痩せるのだろう。

実際糖質制限が体に良いのか悪いのかって所は色々な議論がされているが、今回はそういう事は気にしない。

私はそういう類のダイエットはしない事に決めているから。だって糖質が食べたいから。ラーメンとかを思いっきり食べたいから。

痩せたいから食べない。これは理路整然としていて正しい理屈のように聞こえるけれども、それは私からすると間違っている。

人間の本来の欲望としては「痩せたいし、食べたい」にきまっているのだ。

だから、その両方の欲望はしっかり満たしつつ、筋トレをしっかりするというプラスを行う事によって、頑強な肉体と欲望の充足というメリットを得られる。私はそちらの道を歩きたい。

何かを手に入れるためには何かを捨てなくてはいけない。

だが、物事は単純ではない。なんでも捨てれば良いという訳ではない。

その捨てた物の中に大切な何かが含まれているかどうかは、よくよく考える必要性がありそうだ。


欲望は全部叶えたい!腹筋も割りたい!

男は割れた腹筋を求めている。しかし本当に求めているのは幸福な恋愛体験である。

なんかこんな感じの名言がありそうな気がする。それっぽく装飾してゴージャスな著者の名前でも付与すればいい感じである。

まぁ、実際この主張はそんなにずれてはいないはずで、腹筋そのものが欲しいのではなくて、それによって期待される女性からの好感だったり自身の自尊心の向上だったりが目当てである訳だ。

だから、仮に今現在腹筋が割れなくて困っている人がいても、無為に苦しまないで欲しい。

腹筋が割れていなくても、幸福な恋愛体験をしている人はたくさんいるのだから。

これさえなければ絶対ダメだ!

そんな要素なんて、実はそんなにない。本当に少ない。腹筋はその要素ではない。つまりはなくても良いのだ。

だから長期間努力しても中々腹筋が割れなくて悲観している人も、気軽にやったら良いと思う。

その腹筋を割ろうとしている日々の努力習慣こそが、本当に大切な事であるのだから、むしろそっちを大事にしよう。

【それでもどうしても腹筋が割りたいなら、こっちへどうぞ】



理想の夫婦生活、恋愛関係は干渉し過ぎないで距離感を保てる関係!


距離こそが戦いの極意!

いや、戦いではないのだが、それでも大切な要素であることには違いない。

私は夫婦生活を知らないけれど、それでも距離感が人間関係において超重要である事は今までの人生経験の中で脳内に何回も刻み込む機会があった。

なんでも近ければ良いというものではない。恋愛初期は近づきたくて仕方がないのは仕方がない感情であるし、それでもお互いの需要と供給が一致しているから何ら問題はない。

しかしながら、ある程度長期の関係性を築いていく事になると「会いたいから会う」という単純な気持ちだけではまかり通らなくなってしまう。

というかそもそもの問題点としては「会いたい気持ちが薄れてきた」みたいな問題があるから、その辺からして考えなくてはいけないのである。

そんな時に大切なのが、やはり距離感であると私は思う。

いつもそばにいるのが当たり前。

これは物凄く幸せな事であり、素晴らしい事である。しかし当たり前である事について常時感謝の念を抱くことができる人間は少ない。

毎日同じようなタイミングで同じような刺激を与えられる事について、いつも新鮮な気持ちを抱く事ができたらその人は人間としての何かを超越した存在である事は確かだ。

人間の能力の素晴らしさの一つに「慣れる」というものがある。つまりは飽きるって事だ。

その飽きは、距離感によってもたらされる事が大きい。


慣れと飽きと距離感と好きな食べ物

夫婦生活から一回話を逸らす。

カレーの話をする。

カレーでなくても構わない。しかしカレーという食べ物は大概の人が大好きな食べ物であるので、ここではカレーとする。

さほどカレーが好きではない人、もしくはカレーが憎らしくて仕方がないと思う人は、別の食べ物で代替してくれると有り難い。

で、カレーである。カレーが好きな人はたくさんいる。

しかし、カレーを一年中毎日食べ続ける事ができる人はきっと少ない。だって飽きるから。毎日同じものだと退屈だから。

よって人間は、その飽きを解消するために、日によってカレーのトッピングを変更してみたりとか、まったく別の料理を食べるとかして、毎日の食生活に新鮮を保ち続ける。

毎日同じ事をしない、という事を毎日定期的に取り入れているから、私達は食事に楽しみを見出す事ができるのである。

毎日食べるカレーには退屈しても、たまに食べるカレーは新鮮で美味である。

カレーの話、終わり。

で、この話で何が言いたいかって、まぁ簡単な話で「いつも同じ距離感で一緒に生活していれば、どんなに好きな存在でも飽きるよ」って話。

カレーでさえも飽きるのだ。ならば夫婦生活や恋愛関係に飽きが来るのも不思議ではないだろう。

しかしながら、人間はなぜか飽きの話に登場する要素に人間が出て来ると、その当たり前で大切な事実すらも簡単に忘れ去ってしまう。

「愛の力は最強で無限大で永遠で絶対なんだ!」

そんな妄想を盲信している人ってのは結構な数で存在して、その怪しい思い込みによってせっかく築き上げたかけがえのない関係性までをも崩壊させてしまう事態にまで展開させてしまったりする。

「人間は何にでも慣れる事ができるんや」

そんな台詞をナニワ金融道で聞いた。このケースはカレーだけでなく夫婦生活でも恋愛関係でも言う事ができるだろう。

対象に人間が絡むと、飽きるとか慣れるっていう感情が倫理的に許されないような気がしてしまうのが人間らしさなのであるが、ここは当たり前の事実を素直に認めて、それに則った上で最適な関係性を紡ぐ方法を考えた方が妥当なのではないだろうか?

距離を意識して人間関係を再確認してみる

さて、慣れと飽きこそが人間関係においての大敵。そういう話をここまででしたかった。

ならばその大敵をどうやって打ち倒すのかを考える事が人間関係という戦いに勝利するための鍵となる。

そこで登場するのが距離感って奴になる。

先のカレーの話に基いて話をするならば、「カレーを食べる機会を減らして、他の食事に切り替える習慣を持とう!」という結論になる。

ここまで考えて、夫婦生活や恋愛関係を食事で例えるのが間違っていた事に気づいた。

この例え話に則った上で結論を出してしまうと、「毎日同じ相手と関係を持っていると飽きるから、たまには違う人と関係を持つと幸福になれるよ!」みたいな展開になってしまう。それはまずい。アカンです、例え話がおかしかったです。

まぁ、あれだ。私が言いたかった事は「毎日同じ刺激が続くと飽きてしまうから、距離感という調整弁を持って新鮮さを維持しましょう!」という事が言いたかったのである。

毎日会って、当たり前に生活している人間には慣れる。

でも一週間程度会わなかった人間と再開すると、顔を見ただけで喜びが溢れてくるような感情は誰でも経験した事があるだろう。

それが1ヶ月ならばもっとだろう。だから同窓会などの旧友と久しぶりに会うっていう行事は人気が高いのである。

マンネリ化が慢性化してしまった夫婦や恋人はこれを取り入れてみてはどうだろうか?

一週間程度であれば、大したリスクもなくお互いの有り難みを再実感できるチャンスになり得る。
(あまりにも期間が長いと取り返しがつかなくなる場合もあるから注意すること)

どんなに素晴らしい存在でも、いつも身近にあると、その素晴らしさを忘れてしまうのが人間だ。

ならば解決策は簡単で、その素晴らしさを定期的に思い出す定期的な習慣を取り入れれば良いだけの話である。

「飽きた、慣れた」

そういった単純な事実を見逃して、退屈の原因を別の所に求めようとすると、相手の悪い所や文句ばかりが増えてしまう。

本当の所は単調な刺激に飽きたって所かもしれないので、その刺激をリセットするだけで生活は激変する。

刺激ある生活というのは、変化がある生活という事だ。

変化に富んだ刺激的な夫婦生活、恋愛関係でありますように。

【これが利くのかはわからないけど、この系統のブレスレットは昔は欲しくてたまらなかった。】



ベタなデートがしたい。理想のデートってわかりやすい方が良い。


合コンの記事とか見ると心が重くなる

いや、合コンはしたいよ、デートもしたいよ!!

でもさ、ああいうデート系の記事とか合コン系の記事とか、ああいった類の記事ってのは「デート相手に点数を付けてダメ出しをしたりして小馬鹿にする」って所に記事の魅力があったりする訳じゃん。特に男性の行動やら服装チェックやらの下りなんかはそれだけで心臓を緊急停止させるだけの力を持っている。

まぁ、女性からの観点からすると、「モテる女性」や「自分がモテると思い込んでいる女性」からすると、男性とのデートや合コンなどで精神を痛めつけられる機会が多いから、そういう記事で日頃の鬱憤を晴らすという意味合いで需要もあるのだろう。

男性視点からしても、女性の正直で辛辣な意見を知る事ができると思うから、ああいう記事を熟読するのだろう。個人的にはああいう記事を熟読して全て言われるがままに実践した所でモテるようになるとは思わないけれど。

男性はデートがしたい、女性もデートがしたい。

でもその思い描く理想のデートってのは点数を付けて行わるような、堅苦しい試験のようなデートではないはずだ。

評価や比較や向上なんかは非常に素晴らしいツールであると思うが、愛とか恋とか信頼とか。そういったフワフワした概念について執拗にそのツールを活用してしまうと、心の中に思い描いた理想像が汚されて破られて無残に塵になってしまう事があるから、用法用量を知って正しく利用することが望ましいと思う。


だから今、私はベタなデートがしたい

そういう事を踏まえて、私はベタなデートがしたい。

もう、アレコレ細かい事に気を取られないで、恋人同士の純粋に互いを思い合うようなデートがしたい。

年収とか権力とか将来性とかファッションとかエスコートとか食事マナーとか待ち合わせの時間とかその他もろもろとか。

そういうの全部取っ払って、もっとナチュラルな感じのがいいんだよ。

そらまぁ、大人になると上っ面の装飾品の着飾り方や研磨の仕方が上手になってくる。そうすると自分の心の奥底に持っていた熱い何かが次第に欠けて冷めて行ってしまうのだ。

それがなんか辛い。妥協と打算こそが恋愛のすべてなのかよ!っていう甘酸っぱい青春ラブストーリーみたいな台詞を本気で吐いてしまいそうになる。

でも、ふとした瞬間に何もかも脱ぎ捨てて、純粋な何かに熱中したいと思うんだよ。大人だからこそ若い時の気持ちのひたむきさの惹かれる部分があるんだよ。

ベタなデートが私にその若かりし頃の心の源泉みたいなものを思い出させてくれるんじゃないか?そんな願いを込めてのベタなデートである。

理想のデートは物質ではなく精神にある

以上の事を踏まえた上でわかった事ってのは、理想のデートに必要なものってのは物質的な何かではなく、精神的な何かの要素の方が強いのである。

物質的な何かは最低限で良い。それよりも熱くて純粋な精神活動が要求される。

ファッション誌やテレビに惑わされないで、昔に封じ込めた心に着目してデートを考えてみてはどうだろうか!!!

みたいな感じで締めようかなぁ、と思ったけれど、厄介な部分ってのはやっぱり「物質的な何かは最低限あれば良い」って所であって。

みんな最低限のレベルがすごく高いし、それぞれがオリジナリティをすごい持っているから、相手からすると本当にどうでも良いような部分に着目しちゃったりして、お互いの相性が合わなくなったりして。

「~さえあればいい」「~があれば良い」なんてのは建前の部分であって、しっかりカウンセリングをすると、「最低限求める物質的な何かのレベルが物凄く広くて深い事」に気付かされる。

そんなこんなで理想のデートにはいつたどり着けるのやら、と言った感じだと思った。

まぁ、日々の鍛錬を持って自己のステータスを向上させる事はそれでも大切だと思います。

【なんやかんやでこういう本ってのは大切なのかなぁと思う】



理想の奥さん、彼女は完璧じゃない人。不完全さを許容できる人。


完璧さなんて私は求めない

ヒステリックな人間ほど面倒なものはない。これは男性でも女性でも言える事だ。

ならば、私は少しくらいてきとーで不完全でも、それを受け入れて明るく笑える人の方が素晴らしいと思う。

家庭に何を求めるのか?恋愛に何を求めるのか?

それは人によって多種多様なのでだろうが、私としては「安心、平穏」って奴が大切な要素だと思っている。

完璧に美味しい料理を求めるのならば、私は料理店に行く。私が家庭で求める料理ってのは味が中心ではなく、親密な人間同士が交わされるやり取りなのである。

たまに料理の腕は物凄く上手なんだけど、一々神経質で細かくてうるさくてヒステリックな女性がいる。どんなに料理が上手でも、料理店よりも美味であっても私はそういう人と親密になりたいとは思わない。先に言った通りで、美味しい料理が食べたいのならば、美味しい料理店に行くからだ。

そういう意味で完璧さを追求する相手を好きにはなれない。

「完全には不完全さという要素が欠けている」と言った風な台詞をめだかボックスという漫画で見た。言葉遊びだが全くその通りだと思う。


人間の素晴らしさと機械の素晴らしさ

機械の素晴らしさは言うまでもない、同じ動作を何回でも正確に繰り返せるという点にある。

機械はそういう観点では物凄く素晴らしいものである事は確かだが、その素晴らしさを人間にそのまま輸入する必要はないと思う。

これも繰り返しになるが、機械のような素晴らしさを求めるのならば、機械を購入すれば良いのである。そんな物を人間に求めている訳ではない。

ならば、人間的な素晴らしさってのは何なのか?って所になる。

なるのだが、正直な所、それを明確に言語化するのは難しい。あえて答えを出すならば、言語化できないような素晴らしさが人間にはあるから人間は素晴らしいのだ。という結論を出すことはできる。

でも、それだと完璧さに自分の価値を固定してしまって、完璧である事に固執している人からすれば、どうやって対処すれば良いのかわからないだろうなぁ、と思う。


なのでここでは、何を目指したら良いのかは明言できないけれど、何を目指したらいけないのかって事しか言えない、最近で言う所の「しないことリスト」って事なのだろう。

やらない事をやらない事に徹する事ができるのならば、その後に残った物はやっても良いこと、やると良い事になる。そうやって消去法的な思考でよりより物を求めていくって方法もアリだと思う。

安心と不完全

失敗談を話すと相手から好意を抱かれやすい。

無論、過度に過ぎれば侮蔑の対象になるのであろうが、人間関係において相手を安心させるって事は自分の弱みを晒す事、相手を油断させるって事でもあるのだ。

「どの面においても、自分より圧倒的に優れている存在」

そんな人間がいたら、嫉妬や羨望の感情が生まれてしまい、相手を心から受け入れる事ができないのは、人間として自然な心の動きである。そしてそんな人間と仮に側にいて生活をすることになっても「自分の存在意義が見出だせない」という問題に直面することになるから、結局はその関係性は破綻する事になるだろう。

だからこそ、不完全さを人は愛するのだと思う。

誰かができない事を私がやってあげるって事によって、私の価値は発生するのだから。

私の価値を発生させてくれる人間と、私の価値を削ぎ落とす人間がいたら、愛さえるのは価値を発生させてくれる人だろう。

だからこそ不完全さってのは大切なのである。誰かに頼る事は大事なのである。その辺のバランスが良い感じに機能するのが良い人間関係である。

よって、私は完全さを追求してヒステリックになる人よりも、不完全さを許容して明るく笑える人が好きだ。

そんな奥さんこそが理想!!



寂しさに慣れた時、そこに優しさはあるだろうか


寂しさと優しさの関係性

人はなぜ優しくするのだろうか?

その辺を深く考えていくと、きっと答えは何通りもあるので全てを答えきることはできないだろう。

ただ少なくても誰かに優しくするって時には、そこに誰かがいる時だ。自分一人の時には優しさを与える相手がいないのだから、優しいことはできない。

この考察によってわかることは、優しさってのは社会的な行為であるという点である。

もっと言うならば社会的な利益を得るために人は人に優しくするのである。

ならば、寂しい気持ちが溢れてたまらない時には人はきっと人に優しくするだろう。なんでもしてあげるだろうし、その人が喜ぶのが自分の喜びのように感じて嬉しくてたまらないだろう。

基本的に人間ってのは群れで行動するようにできている生き物だからこそ、他人の幸福を喜べるのである。

では、寂しい状況がいつまでも続いてしまった時。誰かに優しくしてもその見返りが一切なく、孤独な状態で過ごさざるを得ない時が続く。その状態が長く続き、寂しいという感情をその人から消え失せてしまった時、その人に優しさは残っているのだろうか?


何のための優しさなのか

無償の愛って言葉がある。すごく高尚な事だときっと認知されている。

だが無料で提供するビジネスモデルが非常に有効である事が実証されてしまった現代においては、無償の愛にも何らかの策略を感じずにはいられない。

どんな事であれ、人が何かの行動をするってことは、その人自身の何らかの利益に繋がるから行うのだと思っている。優しさも当然それに含まれる。

そうなるのならば、寂しさに慣れきってしまって社会的な関わりってのを一切求めない人間には優しさは必要なくなるのではないか?なんて事をふと考える。

どうなんだろう?実際の所は全然わからないけれど、優しさは消滅してしまう気がする。

人がどうして助け合うのか?って言うと、自分にはできない事があって、それが他人にはできるからである。だから私はあなたができない事をやるから、あなたは私にできない事をやってね。って感じで人はお互いの隙間を埋め合う。

自分の存在が完全無欠で一ミリの隙間もない人間であるならば、その人は誰かに助けてもらう必要もない。助け合いは発生しない。

優しさってのは助け合いなのだから、やっぱり完全な人間には優しさは存在しないのだろうと思う。

だからこそ、表面上の優しさにも感謝したい

ここまでで、本当の優しさなんてないんだ!みんな何かしらの目的や策略があって優しさを振りまくんだ!っていう話をした。

まぁ、実際の所そうであるかはわからない。

ただ、今回の結論としては「理由はなんであれ、優しくしてくれる人がいるのならば、やはり感謝の念を抱いた方が良いのではないか」という事である。

なぜなら、誰かが私に優しくするってことは、「何かしらの利益が私に秘められている」という事に他ならないのだから。

それはもしかしたら、人を道具と見るような無機質的な利用価値なのかもしれない。だがそれでも私に価値があることを優しい態度で私に証明してくれている。

その点については感謝してもいいのかもしれない。まぁ、相手の要求を飲むかどうかは別だが。

人間の奥の奥の思惑や欲望までに手を突っ込んで、「人間は汚い生き物だ!」って悲観して疑って苦しんで生きるよりかは、幾分建設的な生き方ではないだろうか。

薄っぺらくても、表面上だけでも、上っ面でも。それは優しくが含まれていない訳ではない。

【アニメ「氷菓」のオープニングテーマ「優しさの理由」です。いい曲です。】



理想の休日の過ごし方とか考えるけど、家でゴロゴロしているのって本当に幸せなんだよ。


怠惰を満喫できる幸せ

理想の休日を思い浮かべる事はあるが、結局の所そこにスケジュールは存在しない。

空白のスケジュール帳こそが完全なる理想的な休日であると気づいた。

理想的って言葉を引き合いに出されると、朝の早くに起床してオシャレな場所のイケてるイベントに期待を膨らませながら早めに到着して、待つ。待つ間も期待の感情と友達との談笑で一切退屈な時間がない。一瞬一瞬が全てかけがえない大切な時間であって、自分の人生を精一杯生きてる実感が得られる!

もうそういうのいいから。いいから上質なベットと大好きな料理があればいいと思う。

まぁ、快感の取得方法にも色々あって、社会的な自分の価値を向上させるって方法を快感を得る人もいれば、自分の肉体と精神にだけ着目して快感を得る方法もあるって話。私は断然後者を選択する。

休日にまでやることを何から何まで決定しなくてはいけない!って感覚があまり好きではない。外に出てもいいけれど、漠然とした計画の上で物事を楽しみたい。

気楽、悠々自適、その場その場で。そんな精神的な安定感があるからこそ、私は休日を満喫できるのである。


何もしないって事が何の効果もないというのは間違っている

睡眠というのは、ただベッドの上に体を横たえているだけだ。だから睡眠は全く意味のない行為であり無駄である。

こんな意見を正常だと思う人間はいないだろう。眠らない人間はいないし、睡眠の重要性を理解しているからだ。

家でゴロゴロするというのは、ただ家の中で特に目的もなく活動しているだけだ。だから家でゴロゴロするのは全く意味のない行為であり無駄である。

こんな意見は正常だと認識されてしまうのがおかしい。睡眠に意味があるのならば、怠惰にあって多大な恩恵があってしかるべき!という発想には至らないのか。私には甚だ疑問である。

外に出さなければ内で処理される

睡眠というのは脳内の情報を整理整頓する役割を持っている。だから記憶の定着という観点では睡眠は非常に重要である。

家でゴロゴロするというのにも、同様の性質を持つと考えられないだろうか?睡眠が脳内の整理整頓ならば、家でゴロゴロするというのは家の中まで範囲を広げての整理整頓になっていると発想する事はできないだろうか?

一見無駄に見える行為も、日々の生活の中で蓄積された何かを解消したり整理したりする行為なのかもしれない。それが自分の脳内の気づきにくい部分のストレスを解消させているのかもしれない。

外から入ってきた情報を全く脳内で咀嚼して処理しないで、そのまま外に出してしまっては、脳内で情報が消化され吸収され自分の血肉になる機会が失われてしまう。

理屈あってのゴロゴロ、という訳ではないが、私がそれを大切だと思うのならば、やっぱりそれは実践されるべきなのだ。


理想の休日なんだから自分の欲望を全開にせねば!!

理想の休日。こんな大層な言葉からは大仰な行動計画を立てなくてはいない!と多くの人が気負いすぎてしまう。

だが、そんな事をする必要はない。

理想というのは自分にとって最適な状態の事を指すのだから。

よって、自分にとって家でゴロゴロする事が最適だと感じるのならば、それが理想の休日である。誰かからとやかく言われる筋合いはない。

さぁ、堂々とゴロゴロダラダラしよう!!

人は怠惰を貪るために日々を勤勉に過ごすのである!



炎上しなくても、煽らなくても、悪いことをしなくても注目とアクセスを得ることはできる。


炎上のイメージ

炎上ってのはイメージが良くない。

アクセス数や収入を稼ぐために、世間の善良な人間達をバカにして煽り立てて注目を寄せ集めて、自分だけが幸せになろうとしているからできる行為だ。

そんなイメージが多くの人に根付いているから、大概はその言葉を聞いただけで顔をしかめる。私もしかめる。

昔ならば、「まだ精神年齢が小学生高学年なんだね」みたいな意見でも、ネットの拡散力と、拡散され広く認知された事による市民権の獲得によって、真剣に取り合うのも馬鹿らしいような意見にも真面目に回答しなくてはならなくなった。

多くの人から注目されたい、認知されたい、認められたい。そんな願いを胸に秘めて必死に誰かを足を引っ張っている人間からすれば、こんなに美味しい蜜はない。よって旗から見たら中毒者の禁断症状みたいな勢いで注目されようと暴論を誰かれ構わず撒き散らす。

そんな行為を人は炎上と呼ぶので、みんな迷惑がっている訳だ。


炎上の効能に群がる気持ちはわからなくもない

炎上ってのは人の負の感情を活性化させて、その爆発的エネルギーを己のサイトに一点集中させることによって、利益を得ようとする手法だ。

苦しむ人も悲しむ人も怒る人もいるけれど、そのお陰で自分は楽しく笑える!ってのが炎上の特徴の一つだ。

注目されて金銭を稼げるのならば、それだけで十分に美味しい話だ。被害者が出ても実行しようと考える人はたくさんいるだろう。

魅力があるから実践される、ただそれだけの原理原則の上で炎上という言葉は多くの人に認知されるようになったのである。

炎上効果の美味しいとこだけ頂く方法

魅力がある。とはいえその魅力は毒に近い。

短期的な利益は得られるけれど、多くの人に嫌われて将来的な人気は激しく減少するってのは一時的な快楽に身を任せる行為と同様である。

よって、炎上を意図的に起こすのは利口ではないと思う。

だが、そんな話で人間の欲望が収まる訳がない。ならば打開策が必要だ。

その時にどんな方法を取れば、炎上レベルのアクセス、収入、注目を得ながら、デメリットを消滅させることができるのか?


悪人の不正を暴く

炎上のデメリットは自分の評価が著しく下がることにある。

ならば解決策は簡単で、自分の評価を下げずに周囲から多大な注目を浴びれば良い。

とはいえ、周囲から注目の大きな理由ってのは「毒性」を持っている、という点にある。

社会の特定の人々に暴言を吐くという「毒性」

自分が目立つ悪い事をして周囲のヘイトを集めるという「毒性」

なんであれ炎上の特徴というのは「毒性の高い物、マイナスを感情を引き起こす物をクローズアップして周囲の関心を集める」である。

だから、他人をバカにするか、自分に毒を塗るか。そういう手法で炎上を引き起こしてきた。

それにより、炎上のデメリットである、自己の評価が著しく下がるという現象が発生していた。

だが、そんな炎上を起こす必要ってあるのか?って話である。

いやいや、悪人の不正を暴けば良いだけじゃん!マスコミが利益の問題で暴けないような不正を暴けば良いじゃん!

と思う。

そうすれば、「悪人の不正」という毒性の高い物を自分のコンテンツにできるし、それによって自分の評価が下がる事はない、というか絶対に上がる。そして自分のサイトに儲けも出るだろう。積み重ねればデカイ顔して本とか出版できるかもしれない。

炎上の最後の手段でいいと思う

「アクセスが欲しい!」→「そうか、なら炎上だ!」っていう単純化された式が間違っている。

アクセスが欲しいのならば、他にももっと手段はある。そういう話がしたい。

誰かの役に立つコンテンツをたくさん作成するとか、面白い事をたくさんするとか、悪人の不正を暴くとか。

そういう手段の方が人気も健全性も継続性も長期的な収益も高くなるに違いない。

そういう手段に全くの才能がなくて、どうやっても炎上以外の手段で金銭が稼げそうにない!という時にやっと炎上を実行するかどうか?って事を考え始めるべきだと思う。(まぁ、それでも炎上はやってほしくないけれど)

炎上は流行しているワードだけど、有名なだけでそこまで効力が高い方法ではない。

有名=良い物

という妄想幻想をまずは吹き飛ばして考える事が重要だ。



理想の夫婦って存在するの?年を取ってからも愛し合ってる夫婦っているの?


現実の夫婦を観察した結果、家族について考える

スーパーとかに出かけると、人口密度の高い空間に数多くの夫婦があちらこちらに散見される。

密度が高い空間ってのはそれだけでストレスを生むのはわかる。やるべき事がたくさんあって、これから家族の食事を作らないと!っていう気持ちで精神的に緊張しているのもわかる。

でも、それでももうちょっと仲良くしている家族がたくさんいても良いように思ってしまう。まるで無言だったり、必要最低限の会話だったり、もしくは憎しみの念のプレゼント交換会が開かれていたり。

まぁ、所詮は外側を観察しているだけだから、その実際の中身を私を知っている訳ではない。だから家に返って皆で食事をしている時なんかは夫婦円満の理想的な家庭を築いているのかもしれない。

家族を作った事がない人は家族について不安に思うしよく知りたいと思う。

しかしながら、他者からは容易に介入できないからこそ、それは家族なのである。よって私はたくさんの家族について詳細に知る事はできない。

仮に、離婚専門の弁護士などに就業したとしても、それは離婚するような家族について詳細に知るだけであって、悪い部分を集中的に知るというだけで、家族という概念が良い事なのかそうでないのかを知る事にはならない。

理想の夫婦ってのが存在するのか?って事を知りたいと思った時、それをどうやって知ればいいのだろうか?


理想の夫婦は見つけにくい

理想の夫婦ってのは探すのがとても難しいのではないかと思う。

なぜなら、理想の夫婦は離婚はしないだろう。少なくてもその辺の部分に関しては全世界で共通しているだろう。

という事は、理想の夫婦は離婚弁護士の所には当然訪れる事はない。

誰かが何かに取り上げられて公衆の面前に晒されるって時には大概悪い事をやらかした時だ。よって問題のない理想の夫婦には公衆の前には現れない。

また、普段の生活でも理想の夫婦は目立たないだろう。

なぜなら、喧嘩をしている会話の内容と、仲良くしている会話の内容だったらどちらが目立つだろうか?

声を荒げて、相手を罵り、場合によって周囲の物が大きく動く。そんな状態の方がより目立つのは当然だ。人は危険に敏感になるが幸福に鈍感である生き物なのだから。

だから理想の夫婦は目立たない。よって見つけにくい。

皆が望んでいる理想の夫婦ってのは、初期段階である「見つける」という行為の時点で非常に難しいのである。

知らない、過去に存在したかわからない存在を目指す

もしも「私達が理想の夫婦です」っていうカップルが目の前に現れたとしても、本当にそれが本当なのかはわからない。

偽っているのかもしれないし、忘れているのかもしれない、両者がそう思っているのかは不明である。

よって、厳密に言えば「この人達が絶対的な理想の夫婦です」と言い切る事は不可能なのである。他人の人生と脳みそを詳細に知る事は現時点での技術力では不可能なのだから。

ならば、自分ができる事というのは「自分自身で理想の夫婦を作り上げ、理想の夫婦は存在したのだと理解すること」だけだと思う。

その事実は自分の脳内にしか存在しないので、他人に教える事はできないだろう。なぜなら自分の言っている事が他人からすれば本当に正しいのかを知る事はできるないのだから。

理想の夫婦のハードルは高い。関わる相手が違うのだから、他のカップルの真似をしても上手くいく保証はない。

しかし、どうすれば理想の夫婦になれるかを模索することこそが、理想の夫婦のための第一歩である事は間違いないだろう。

【理想の息子は公表されてるみたいですね。】



理想の貯金額とか考えてどうするの?無駄。稼ぐことに目標を立てた方が建設的。


何歳ならこれくらい貯金しないと!!

年代別の理想の貯金額を発表するような記事がある。あれの需要がわからない。

だってさ。じゃあさ。その理想の金額を私が知った所でなんかできるの?急に自分の貯金口座のお金が増えるの?そんな訳がない。

ならあれか。20代の間に30代の理想の貯金額を知っておいて、その金額に至るために20代のうちからコツコツと節約生活に励む事が幸せなのか?良いことなのか?と問われたら、私はそうではないと思う。

これは理想の貯金額でも、年代別の貯金額でも同様である。そんな事知ってどうすんだ?意味あんのか?と心の底から思う。

それとも貯金額の発表ってのは、世間の理想や平均値ってのがどのくらいかを知って、自分がそれに対して優越である事を実感して快感を得るために存在するのだろうか?いや、でも理想の貯金額を上回る人間は少数であろうし、平均金額を超える人間ってのは半分しかいない事になる。快感を得るにはあまり効率の良い方法だとは思えない。


なんであれ基準を求めるのが人間だ

人間は比較が大好きだ。仮に比較の結果として自分がランクの低い人間であると知ったとしても。それでも自分の立ち位置を知らずにはいられない。

人間にとって、どうしようもなく大切なお金についても、何らかの基準が欲しいと思うのが人間の性なのだろう。

だから、正確な平均額が取得できるのかもわからないような貯蓄平均額と自分の預金通帳を見比べてみたり、理想を貯金額を引き合いに出して自分を叱咤激励したりする。

線を引いてもらい、その上で自分という点がどの位置に存在するのかを知りたい。

社会的な生きものである人間ならではの行動だが、あれはそんなに意味があるようには思えない。

比較している暇があったら働いたらいいのに

学生時代を思い出す。平均貯金額の事を聞くと学生時代を思い出す。

「このテストの平均点は何点ですか?」

どうでも良くない?それ。

それがわかったらなんなんだろうか?そんな事を聞いて一々思い悩むくらいならば、間違えた箇所の復習をしたり、新たな知識の吸収作業に徹したほうが将来的に高得点を出すことになるんじゃないかな?

という昔に感じた文句が今回の話しにも当てはまる。

さっさとお金儲けに勤しんだら良い。潤沢な貯金額を有している人間はそんな記事に興味はない。夢中になったりはしない。気に病んだりはしない。

理想の貯金額に到達することよりも、そんな心理状態でいられる方がよっぽど理想的なのである。

よって、現時点での理想的な行動は、理想の貯金額を詳細に知ることではなく、理想の貯金額に興味がなくなるくらいに働いて働いて働く事である。

人は比較が大好きで、機会があれば即座に比較を始めてしまうくらいの比較中毒者であるので、その点には注意するべきだ。

どの点で比較をするべきか、どの点で比較をしないべきか。

そこに重点を置いて考える事こそが私をより良い方向へ進ませるのだと思う。

【貯金額を気にするよりも、今すぐに貯金をした方が建設的!!】