子供時代の夢のような生活

人が夢を持つタイミングは、大体が仕事を就く前である。そしてこれが理想と現実との大きな隔たりを産んでしまうのではないだろうか?

毎日決まった時間に起きて、朝ごはんはお願いすれば出してもらえるし、出してもらえなくても冷蔵庫の中を引っ張ればそれなりの食事は出来上がる。

毎日決まった時間に出発して、友達と談笑しながら学校までの道を歩く、当然学校に到着したって授業が始まったって、スキがあれば友達とふざけ合ったりして遊んでいられる。

勉強でわからない事があれば頭の良い友達に教えて貰えばいいし、多少バカでもそれがチャームポイントになったりして余計に人気者になれたりする。

学校にいる時は勿論幸せだし、学校が終わった後は仲の良い友達とゲームや缶蹴りや野球なんかのもっと楽しい遊びができる。

言ってしまえば、生きている間の全ての時間が幸福なのだ。そんな夢のような時間の中で思い描く夢は、夢のまた夢なのだろう。

そこから、仕事や生活と言った現実へと人は急転直下していく。昔思い描いた夢を想像通りに実現できる人は少ない。少年の頃の生活を夢見て日々を生きる人も結構な数で発生する。


現実落差問題

どうにも、大人になるまでは夢のような時間をこれでもかと精神に流し込む割には、社会に生きるようになってからは、その逆をこれでもかと流し込まれる。

人によっては、その落差でショック死してしまうし、大概の人は「自分の夢なんか現実では到底叶いっこないんだ!」と絶望して社会色に染まっていく。

それは人が弱いからではない。あまりにも急激な落差を体験させるのが常体化している事が問題なのである。

労働の精神的過酷さを知る体験

夢を持たせる前に、多少の仕事や労働活動を少年少女に行わせてはどうだろうか?と最近は思うようになった。無論これにも弊害はあるだろうが。

だが、多少の現実を知った上での夢の方が、実現性も希望もたくさんあるのではないだろうか?

壮大過ぎて、まるで一歩も進めないような夢よりかは、多少見劣りしても着実に一歩ずつ前に進んでいける夢の方がきっと楽しいだろう。

だとしたら、着実に一歩ずつ進んでいける夢を見つけるためには、現実をある程度知っている必要がある。

だから、小さい頃から労働活動を多少体験する事には意義があると思う。

夏休みを一ヶ月削って、その空いた一ヶ月で、どこかのお店で無償で労働するとか。

いや、それじゃダメか。金銭の伴わない労働なんて意味がないし、金銭がなくても生活がまるで揺るがないのであれば、そこに現実味はないだろう。

「金がなくては生活できない。金を稼ぐためにはやりたくない労働をしなくてはならない。」

このジレンマこそが現実であり、早い内に思考、体験して欲しいと思う事なのだから。

よって、「あと一ヶ月頑張れば、あとはずっと遊んでいられるぞ!」ではあんまり効果がない。

労働の過酷さは、「労働をいつ終えられるかが全然見えない」ところにあるのだから。

「終わりが見えない」から、労働の終わりを迎えるためには、莫大な金銭が必要だと言う事が大人になってやっとわかるから、人の心は大いに乱れ、乱心して狂ったような金稼ぎをする輩が出現するのである。


現実ベースで夢と向き合う訓練

自分の夢が現実的に達成可能なのか?

つまりは、自分の夢は商業ベースに乗るのか?

夢のない思考だと思う方もいるかもしれないが、現実世界で何かを成し遂げるためには当然そんな発想が必要になってくる。

現実ベース思考。商業ベース思考。

そんな発想を「社会生活を開始するまで理想ベースで夢妄想を膨らませてきた人間」が容易にできる訳がない。もっと小さい内に慣らしておく必要がある。

だからこそ、子供の内から商売や労働に馴染ませておく必要がある。

「この労働から、どうやって逃れるか?」

「この労働を、どうやって楽しくするか?」

「この労働は、どうやったら消滅させられるか?」

労働に対する反応は人それぞれだろうが、現実で一人で生きていく上では不可欠になってくる労働を体験して思考する事が大切なのである。