人は生きたいし優れたいから

「ウチはまだいい方だ」ってもう五十歩百歩の現代版だよね。

悪いもの同士で比較して、その中ではマシな方だから「自分は良い!」なんて定義を無理やりしてしまうものである。とんでもないロジックであるが、これが結構世の中にまかり通っているから凄まじいものである。

どうしてこんな現象が起こってしまうかと言うと、「人間は金を食わねば生きていけない」し、「人間は本能的に何かを見下したい」からである。

自分の生業が真面目にやっていたらまるで儲からない、でも現実的にその生業から手を引く事は不可能である。そうなると自然と倫理から外れた行為でしか利益を得られなくなってしまう。本人としても悪いと思っていても、悪い事を辞めたら将来生きていけない事が明白であれば結局悪い事を辞められる人なんてそうそういないのである。

となると、ズルズルと非倫理的な事を続けてしまう。でも自分を悪い存在なんて思いたくない。ならば「自分より悪い人間を見下してバランスを取ろう」という発想になる。

結果として「ウチはまだいい方だ」と言って、何かを見下して自分を賛美してお金を儲けて今日を生きるのである。

人格は環境に左右されるという極々自然な法則

無論、非倫理的な行為なのだから悪いし格好悪い。だから周囲は憤慨して辞める事を要求する。しかしながら当人としては「辞めたら死ぬ」訳である。ならば普通の人は辞めないだろう。

迷惑を掛けなくても生きていける状況にいる間は、迷惑を掛ける存在を率先して糾弾するのが人間だ。

しかし、迷惑を掛けなければ生きていけない状況に陥った場合は、「迷惑を掛ける存在」を擁護したり誤魔化したり正当化するのも人間だ。

つまりは善悪という人格とは、その人の運による状況次第で簡単に裏表に変わってしまうものだと言う事である。

そんな事を知った所で、安全圏にいる間は「悪い物は邪魔で迷惑」である事に一切の変わりはなく同情の余地もない。

人はみな、善になりたい

人間の性格はそういった背景から構築されるものなのだから、「悪の心」も「悪を糾弾する心」もどうしようもない物なのである。

そんな事を理解した所で、何かが変わる訳でもなく「悪い物は不快」なのに「自分自身が悪に近づけばそれを守ろうとする」のである。自分を心の底から嫌悪する人間はこの世には存在できない。

「ウチはまだいい方だ」に対して憤る方は大変多くいるだろうが、「ウチはまだいい方だ」を使えないと人は生きてはいけないのである。

人はみな共通して「善みたいな何か」に向かいたいのである。それが生存であり優越である。生存のためには利益が必要であり、優越のためには格下が必要なのである。

ひどく酷い事を言うならば、「悪人とは善になる事に失敗した存在」なのかもしれない。