対岸の火事の法則

豚、鳥、牛。その内のどれが一番食べ物の中で好き?という会話はよくされる。きっとされる。私はした事があるから、とりあえず一般的な会話なのだと思っている。

吉野家?松屋?すき家?的な三つ巴であり、ヒトカゲゼニガメフシギダネ然り、金銀銅然り、上位3つくらいが人間が注目する限界であり、選択して楽しめる範囲なのではないかと思っている。

個人的には鳥が好きだし、すき家の高菜明太牛丼が好きだし、フシギダネの葉っぱカッターが好きだ。

でも、そんな事は今回はどうでもいいのである。

自分が食べる対象として、何かを選ぶ時は非常に気楽な気分である。

だが、どうだろうか。「豚、鳥、牛」のどれかに生まれ変わるなら、どれがいい?という質問ならば、どれを答えるだろうか?

食べる時と同様にはならないだろう。なぜならば、この三つはいずれも人間の食べ物として広く認識されていて、生まれ変わった場合は「食べられる側」になるのだから。

何かを食べる時には軽い気持ちも、食べられる側に立った時は、パニック同然の騒然とした心境になるはずだ。

「する側がリラックスしている時は、される側はその逆の心理状態にある」そんな法則があるような気がしてきた。

カイジの金持ちに出てくる奴らと、大金を掴もうと自分の人生を売り払う奴の対比。そんな図が連想される。これが対岸の火事という奴なのだろう。大混乱に陥っている人間達を、自分には火の粉が降りかからない場所で観察すると、非常にリラックスできるという酷い言葉である。

使う側と使われる側の違い

で、どれを選んでも酷い事になること必須の三択である。

別に、ヒトカゲゼニガメフシギダネでも大して変わらないだろう。

「人が何かを使う時は、その者の能動的理由しか浮かばない。しかし何かに使われる側に立つならば、その者の受動的理由しか浮かばない。」

例えば、ヒトカゲを使う場合を考えるならば、リザードンまで進化すれば「そらをとぶ」と「かえんほうしゃ」の両方が使える!みたいな発想が出てくるだろう。

しかし、ヒトカゲに自分が変身し、誰かに使われる場合を考えるならば、自分の尻尾の火が消えるリスクがどれくらいあるのか?という事をまず最初に考えるだろう。

この例え、伝わる方がどれくらいいるのだろうか?未だにポケモンって人気だけど、初代を知っている人間ってのはそれなりに居るのだろうか?わからん。

まぁ、例えば伝わったかどうかはわからないけれども、使う側は「命を最大限燃やし尽くす方向」で考えるし、使われる側は「命を最大限守り抜く方向」で考えるのである。

鳥と人間はよく似てる

という事で、「牛、鳥、豚」のどれになるか?って話である。

正直言って、もうどれを選んでもどうしようもない気がする。何にせよ、人間の口の中に入るのだろう。それも飽食の国、日本であれば、調理されるだけされて、最終的には食べられる事もなくゴミ箱の中へとポイである可能性も否めない。まっこと無念なりける事態である。それを人の人生になぞらえてみるのならば、大変悲惨極まる人生であるのだが、そんな事は構いもせずに自分の人生だけは苦労と努力を重ねれば絶対に報われるのだ!と思い込める浅はかさが人間の強さなのだろう。

そんなこんなで「どうしてもこの三つの中から選べ!」と言われるならば、私は鳥を選択する。

とんでもない幸運に恵まれて、カゴから抜け出せるタイミングが奇跡的に訪れた場合、飛んで逃げ出せるような希望を持てるから。

現実的にはそんな事態がまず訪れないのは確かであるが、豚と牛に比べたらまだマシなのである。

あの二匹は、外に逃げ出せてもまず生きられないし、すぐに捕まるのである。日本ならばあんなにありふれていて、目立つ生き物はないだろうから。鳥ならばそこまで注目される事もないだろう。

それに、羽を持っていて大空へ飛び立てる能力を持っている鳥というのは、一番気持ち的に希望を持ちやすい生き物であると思うのである。

「限りなく広がる大空があって、このカゴさえなければ自分はそこへ飛んでいける翼がある!」

これこそが希望である。

こうやって考えると、人間もそうやって希望を持ちながら、カゴの中で暮らしているのではないだろうか?

「いつかあの大空へ羽ばたいてやる!あぁあの空の中で自由に飛べたら絶対に気持ちいいだろうなぁ」なんて夢想して生きている人間は多いのではないだろうか?

まぁ、何はともあれ鳥である。