問屋の芸風

アイツはいつもそうである。「そうは問屋が降ろさない!」とかもう絶対に決まり決まったフレーズしか発言しないのである。完全にお家芸である、これさえやっておけば絶対にウケるだろうと思っている調子こいた気分が透けて見える次第である。

何より気に食わないのが、問屋は上から目線なのである。

完全に決まった流れで安定した笑いを取る大ベテランとして「ダチョウ倶楽部」が挙げられる。
あの方々は決して上から目線で何かを言って笑いを取ろうとはしない。厳しい口調で何かを言うことはあっても、そこはユーモアと優しさがある。そして最終的には自らが「オチ」になるから誰かを傷つける事もない。偉大である。

其れに比べて問屋の方はどうだろうか?困った一般観客に対して優しい手を差し伸べた事があるだろうか?私はそんな姿を一度足りとも見たことがない。

どんな苦痛の声も、懇願の叫びも、誠実なる嘆願も、「そうは問屋が降ろさない!」ガハハなんて具合で跳ね除けて笑いを取ろうとするのである。絶対に調子乗ってリズム付けながら言ってると思うよ、アイツら。


問屋問題

確かに笑いが取れる場合は多い。これだけ長年使われている名台詞である。需要はあるのだろう。しかしながら、これは笑いとは言っても「嘲笑」に近いものではないだろうか?どこか「降ろしてもらえなかった人達」に対する侮辱や嘲りの心情がなかっただろうか?誰かが困る姿を見て笑いを取る手法もあるけれども、それが多くなれば冷たい世界が広がっていくだけだ。それは悪い笑いだ。

どうしてそんな事をするのだろうか?問屋はそんなに降ろさないで楽しいのか?たまには降ろしてやってもいいんじゃないか?との抗議のお便りが訪れない日はない程に問屋に対する注目度は高い。「そうは問屋が降ろさない!」という台詞。できれば自分だって言いたくないけれども、時としてどうにもならない状況に対して仕方なくその人自身が使用してしまっているという葛藤も相まって、批判の声が強くなっている背景もあるのだろう。そんな人達のお便りからは、理想と現実の中でもがく懸命な姿が浮かび上がるようだ。

長年続く「問屋問題」。大体このワードを世間に放つと「私は昔、とんやとんだいって読んで笑われた事があるよ!」という鉄板のあるあるネタが飛び出して来る。それに被せるように「いやいや、俺はもんやもんだいだよぉ。ガハハ」という一連の流れは「今日はいい天気ですね」に次ぐまだ気心の知れない相手と会話をするための必須アイテムである。

降りられない問屋

それはともかく問屋問題である。どうして彼らは批判相次ぐ「そうは問屋が降ろさない!」という寸劇を繰り返すのだろうか?その点こそが「問屋問題」の根本的な問題である。

私が考えるに、「あの人達は一度人気が爆発して世間に浸透定着した名台詞に絡め取られている」のだと思う。そう、あの人達と言ったら「そうは問屋が降ろさない!」なのである。きっと芸名を伝えるよりかも、その名台詞で認知している人の方が多いくらいに。あの人達からすれば完全に言葉だけが一人歩きしている状態で、その言葉に操られるかのように喉を震わせているだけなのかもしれない。

「人気が出たから、世間が定着したから、民衆が要求するから、民衆が感心を持つから。」だからそこから抜け出す事ができない。

「この台詞がなくなったら、自分達の存在ってそもそも何でもなくなってしまうのではないか?」という漠然として不安が駆け巡っているのではないだろうか?

本当に降りられないのは問屋の方なのかもしれない。そんな心情を察して切なくなる今日此の頃である。