何となくの信頼

私が信頼してしまうのが悪いのだろう、とも思う。人を見た目で判断して、少し話したから親近感が湧いて、地味な雰囲気を真面目だと勘違いして、勝手に誰かに依存心を抱いてしまうから裏切られるのである。

裏切られたと感じた時、大概の場合は他人を責める。私もそうした。しかしながら深く考えるのであれば、裏切られる準備をしたのは紛れもなく自分なのである。適当で曖昧な理由で誰かを信用したから、安易に裏切られて容易に傷つくのである。

考えてに考えて、観察に観察を重ねて、自分の心の底から明確に誰かを信頼すると決定したのであれば、きっとその人に裏切られたとしても、それなりに爽やかな気持ちでなれるのと思うのである。「まぁ、これだけやって駄目だったんなら、仕方ないよな」という風な穏やかに心境になれると思うのである。

とどのつまり、そういう事なのだろう。何となく関わって、何となく決まって、何となく悪い結果で終わる。そんな自己の意志がまるで絡んでこないような退屈で気だるくて無責任な生き方をするから、精神もそのような方向に引きづられるのである。曖昧な部分で心を留めておくから、脆くて弱い。

消極的に生きたツケが回る

完全に信じるか、完全に信じないか、もしくは信頼度を明確に決定しておくか。自分の中ではっきりとした基準を設けておけば、もう少しスッキリと生きられるのではないだろうか、と思う。

卒業式が来ない限り学校を去らない。クビにされない限り会社を辞めない。寿命が来ない限り死なない。たぶん明確に誰かを信頼しない人は、こんな人生を歩むのだろう。酷く消極的な態度である。消極的だからこそ、曖昧で脆くて弱いのである。だからふとした瞬間に心を傷ついて「裏切られた」と憤るような見苦しい真似ができるのである。

依存心が存在する事に慣れきっているのだろう。自立という発想が抜け落ちているのだろう。だからこそ、どこかの組織に所属して言いなりになるような受動的な行動はできるけれども、自分で組織を作成してそこで指示を出したり責任を取ったり信頼を勝ち得たりする事はできないのだろう。

ポジションの優劣は能力の優劣だと思っていたけれども、それは実際の所の間違っているのではないだろうか?無論、ポジションが人を育てる理論にも賛同できる部分はある。しかしながら、誰かをそのポジションに付けただけで自動的に全員が精神面での成長を遂げるとは思えない。多少は変わるけれども、それが決定打にはならないと考える。

最終的にその人の精神そのものが自立しないと意味がないのである。その手段の一つとしてポジションを変えるという策があるのだろう。

個人ができる自立法

じゃあどうやって自立するんだ?ってのはやっぱり大事になってくるのである。組織における自分のポジションを安易に変える事は容易ではない。そんな事ができるのは経営者側の人間であろうし、それを従業員の側から行なう事ができるのならば、その人はその時点で強靭な精神力を有しているのである。

個人でできる自立する方法こそが重要なのである。自立こそが積極性を生み、積極性は「他者を信頼せずに他者を信頼させる能力」に繋がるのである。そうなれば、自然と周囲に役に立てるリーダーシップを持った人間になれるから、精神的な安定とより大きな利益が見込めるのだから、自立する方法を個人で持つ事はやはり大切だ。

じゃあその方法って具体的に何があるの?って言うと、私自身が思いつく事としては「人間関係の整理」と「不要な物を捨てる」って事がそれに該当するんじゃないかと思う。

人間関係の整理については、「過度に依存している人間との関係を断ち切るという事」が一番効果が高いだろう。しかしながら、これは今迄大きく依存していた対象がなくなるのだから、非常に精神的負荷は大きい。依存心が高い人がそんな事を実現できる可能性は低いだろう。だがその分だけ自立効果は高い。

本当に大切な人との縁まで切る必要はないと思うが、過剰に頼りすぎて良好な縁を紡げていない人間に関しては、自分のためにも相手のためにも切ってしまった方が良い場合もある。

不要な物を捨てるというもう一つの方法については比較的容易だろう。いらない物をただゴミ袋に詰めてゴミ収集所に投げればいいのだから。何故かはわからないが人間というのは自分の身の回りの物にも結構依存してしまう生き物らしい。近くに物が溢れている状態に安心を覚える人間というのがいるらしいのだ。

無意識の間にそんな状態になっている場合もあるので、不要な物を精査して処分するというのは精神的にも経済的にも有効な手段である。