結果が見えにくい「わかりやすさ」

「わかりやすい資料」とは何だろうか?

私は何かの資料を見て「わかりやすい!」と思った事があるし、その逆に「こんな糞みたいな資料寄越してんじゃねぇぞぉおぉお」みたいな気分になった事もある。

確かに私の中には「わかりやすい資料とわかりにくい資料の違い」があるのだ。

まぁ、時たま自分の理解の浅さを「資料の記載不足や思慮不足のせい」という事にして責任回避を計画する事もあるが、やはり冷静になって見直せば資料としての不備なのか私の脳内の不備なのかはよく理解できるのだ。

私の脳内では「資料の良し悪し」を分別できている。しかしながらそれを完全に言語化する事は難しい。

言うまでもなく「文法がおかしい」とか「誤字脱字が溢れている」とか「取り消し線」とか「意味のない色文字」とか「規則性もない無駄にカラフルな図形」とか、そういう明らかにおかしい部分を指摘する事はできる。だがそれは部分であって全体ではないのだ。

「わかりやすい資料とは何たるかを精密に言語化した資料」を私はわかりやすい形で作成できる自信がない。

それでも私はわかりにくい資料に憤慨する事ができるのだ。これは傲慢だろうか?それとも自然だろうか?

これはどうなんだろう?自転車に乗ることができても、自転車に乗る方法を事細かに順序立てて一から言語化して説明する事が困難な事と同じだろうか?なんか同じ気がする。

とは言っても「自転車は実際に乗ってみせる」という非常にわかりやすい結果を提出する事ができるから、その辺を深く考える必要はないのである。

自転車の乗り方を全て言語化しなくても実際の乗って見せればいいのである。

「わかりやすさ問題」はどっちが悪いかわかりにくい

だが「わかりやすさ」は違う。白黒が非常に付けづらい代物である。

何故なら100人中99人が「わかりやすい!」と言った資料であっても、たった1人が「全然意味わかんねぇ」と言ってしまえばその時点で真偽不明曖昧な案件に成り果ててしまうのである。

確かに判定をする100人が一堂に会して、やんややんやと一つの資料について討論を重ねるのであれば「わかりやすい資料である事にまず間違いがない」との結果が出るからいいのだろう。

しかしだ。しかしながら現実的な問題としてそんな大勢が皆一様に自分の本音と率直な意見を出すとは限らないのである。

つまりは一対一でその資料についての良し悪しを語り合わなければいけない時もあるし、権力やら空気やら人間関係やらで素直に意見を言う事ができない場面なんて多々ある。というかほとんど全てだ。

一対一でのケースを一つ例に取ってみれば、この問題は簡単にわかる。

私が「この資料のここの説明、全然わからないんですけど!ここはこうやってこのように修正してください!」と言ったとする。

しかし相手が「いやいや、普通に考えれば理解できますよ?あなたの頭がイカれてるんじゃないですかね?私は当たり前にわかりますけどねぇ」と返されてしまえば終わり、ジエンドである。

わかりやすさとは「自転車に乗ること」とは違い、明確な点で指摘をする事ができない。

ともすれば「わかりにくい箇所を果敢に指摘している姿」は甘えている、知能が足りない、ワガママであると解釈される可能性もある。

相手のおつむの調子が悪ければ「わかりにくい事に気付けない」可能性だってあるし、自分で作った資料の意味をロクに理解しないで提出してきたりする事もある。

「わかりやすさ」を理解したい

つまりは「どっちが悪いのか?」って部分を判断するのが現実的には非常に厳しいという現状がある、という事なのだ。

だからこそ話はいくらでも膨らむし荒れるし、さらには決着が付かない。中々に面倒な問題なのである。

この辺はコミュ力にも通じる所があると思う。あれも非常に大事なスキルでみんなから重宝されるけれども、コミュ力がある人の上っ面だけを真似た人を見ると違和感を覚えたり、コミュ力があると思い込んでいるだけの人と対峙すると非常に面倒な気持ちになってしまうものである。

目に見えにくいものでも大切なものはいくらでもあって、それらは人の気持ち次第で自由自在に飛び回るのである。

そんな捉えにくい何かを皆で一致団結して掴もうとする行為こそが「わかりやすさの追求」であり「コミュニケーション」なのであると思う。

それを掴もうとすれば、時として言い合いやすれ違いや隔たりが生じるだろうけれども、掴もうとしない人間にはやはり掴むことは叶わないのである。