長期休暇とネガティブの関係性

長期休暇に入ると、不思議な事にツイッター上でのつぶやきがネガティブになっているよう思える。所詮は私の感想でしかなく、データなんて一切ない。

ただ、上記の感想が仮に真実とするならば、その時どんな法則が導き出せるのかを考えた。

人は誰しも攻撃性を有している

人間は多かれ少なかれ、精神に攻撃性を宿している。攻撃と聞くと何だか一辺倒に悪い物として否定したくなってしまうけれども、人が生きて成長して繁栄するためには必要な要素である。

人は食べねば生けられない。この時代だからこそ、狩りをしなくてもお金があれば食品は容易に獲得できるし、お金がなくても国の保護を受ける等の選択肢を取ることによって食事にありつく事ができる。

現代は豊か過ぎるが故に、その攻撃性は退化している感があるが、それでも「お金を稼ぐ」にしても「国から保護を得る」にしても、攻撃性、言い換えるのならば積極性というものは不可欠な要素であるのは確かだ。助けてもらうにしても、「助けを乞う」という積極性がなければ、助かる事の成功率も激減するのである。その辺には色々なテクニックがあり、表面上はまるっきり攻撃性の欠片も見えないような物でも攻撃性の塊だったりするケースもある。

人によって攻撃性の形は様々だけれども、人は皆その攻撃を有し活用する事で、生命活動を維持、及び向上させるのである。

その攻撃性を人は日々の生活の中で色々な方で使用する。何かに挑戦する時に使用する場合もあれば、誰かと戦う時に使用されるかもしれない。そして戦いの方法は単純な物理的な手段だけでなく、言語による精神攻撃や、陰口等の鬱憤晴らしなんかの間接的な手段などが用いられる。陰口では相手になんら影響はないのだが、仲間作りや自己の精神修復等の効能はあり、遠回しではあるが攻撃性は十分に有している。陰口が褒められたものではないのは、確かだが。

行き場を失くした攻撃性の行方

ここまでの話を総括すると「人は皆、攻撃性を有しており、その攻撃性を様々な形に変換させて、日々の生活している」という事である。至極単純である。

では何故「長期休暇になると内向的かつ自罰的になる」のか、という事になるのだが、これは「他者と関わる機会が減少するが、毎日充填される攻撃性の全体量そのものは変化しないため、攻撃の対象が自己に向かう」からであると考える。

つまりは日々の仕事や学業で消費している攻撃性が余ってしまい、行き場をなくしたエネルギーが自分に矛先を向けるという理屈だ。

「外に攻撃性を放出できない」という事は外向的ではないという事であり、自然と内向的な性質を備える。コミュ障は益々、コミュ障らしさを増大させるし、ニートは引き籠もれば引きこもる程に外から出にくくなる。可哀想な話だが、人は何もしていないつもりでも、その環境に居続けるだけでその環境に対して適応し続けてしまうのである。

内向的であり、攻撃性が有り余っている状態になるのであれば、自己を攻撃するのは極々自然な流れである。よって人は他人と関わらないと自然と内向的かつ自罰的になる、という話である。

内向的で自罰的、そんな性質が必ずしも悪い訳ではない。内省できない人は改善できないし、自罰が欠ければ人格を失うだろう。この性質が欠落している人間が「他者に対して批判した思想行動言動を平気で自分自身が行ってしまい反省しない性質」、俗にいう「おまいう」な状態になってしまうのである。

そういう訳で「内向と自罰」は大切な物だが、長期休暇になるとその成分が過多になってしまいツイッターにネガティブなつぶやきが増大してしまうという結果を生むのではないか?というのが私の見解である。

真面目で悪口を言わない人の方が鬱になる理由

要は何事も使い方であり、普段の生活と異なった時間を過ごすと、いつも通りの使用方法ができずに暴発してしまい不利益をもたらす事があるって事である。そのキッカケの一つが長期休暇なのである。

「薬も過ぎれば毒となる」という格言もあるように何事も状況と分量が変化した時には冷静に観察し行動した方が世の中を快適に歩めるという話だ。

まぁ、とは言っても長期休暇の幸福な時間であってもツイッター世界はいつも罵詈雑言に満ち溢れているから、大半の人間の心配には及ばないだろう。この法則に当てはまる人は「真面目で他人の悪口を比較的言わない」人間である。あと、長期休暇にちゃんと一緒に過ごせる家族や友人がいる人間も良好な関係を築けているのならば、問題ない。その場合は攻撃性が良い変換のされ方をして「新鮮さ」や「幸福」に繋がっていることだろう。

最終的な教訓としては「攻撃性は誤変換と余剰という現象を経ると多大な害を発生させるので、用法用量を良く読んで活用するのが良い」という事だろう。