御託並べ


言い訳

そこに正当な理由があるように感じてしまう。

単一の単純な行動について、多数の複雑な理由を連続で休むことなく突きつけられると、「そんな簡単な行動にそんな裏があったのか!だからやる必要はないのか!」なんて納得してしまった過去もある。私はその時、人が嘘を付く時は饒舌になる事を知らなかったのだ。

難しい言い回し、理解できない主張、繋がり合っているかのような錯覚。

それらが単純なる一つの動作をやらない理由を大いに訴えている事しか私には分からなかった。

そんな過去を振り返って見ると、そんな過去を分析してみると、「御託を並べていたのだろうなぁ」という酷く単純な結論しか導かれた。

結局の所、どんなに難解だろうが多層化されていようが語彙が豊富だろうが、その言動を収束させて一つの方向性を見出した時、「怖いから、やりたくない」と言っているのと同じ解釈しかできなかった。

たまにいるのだ、そういう奴が。そういう奴に私は気付いてからは、私は頭の良さという物を再考する事になった。


格好付けたパス

手札の組み合わせによって、それを単一に揃えた時に比べて高得点が得られる事を「役」というはずだ。

個性のある要素群をバランス良く一つの場にまとめる事で、単体で動作させる以上に高い効果を生む、という学問でも人間社会でも非常に有用な教えを「札、カードを使うゲーム」によって我々は教えられてきた。

その弊害で、私は「難解な要素が複雑に絡み合っているのだから、それは強い効果を発揮しているに違いない」と勘違いしてしまったのだろう。どんなに難解でも複雑でも、やっぱりそれはブタだったのだ。

ポーカーや花札の世界では、この人はブタなのだろう。ならば別の解釈はできないだろうか?

ゲームが違えば、価値観も違う。価値観が違えば成果の出し方も違うだろう。

ならば七並べだろうか?つまりは次のステップに進むための手札が足りていないから、そこで駄々をこねるしかできない。そういう事はあり得るだろう。

うん、まぁそれなら納得できない事もない。

「こいつ、口だけは立派な事を言いやがって、実際の行動には何も結びついていないじゃないか!」なんて言う心の鬱憤をその人に溜め込んでいたけれど、その人からすれば「手札が詰まっていて、パスしかできない」という状況なのではないか?という話だ。

パスしかできない、それを他者に知られないからこその、御託。そうなのかもしれない。

明るい嘘

心の弱さや心的外傷によって、単純にやればできる事ができない人も、まぁ確かにいるのだろう。勝手な憶測の存在に対して同情するつもりはないけれど、それでも、それなら納得くらいはできる。

物理的には可能でも、精神的には不可能な事なんて、人間は人間だからこそたくさん持っているのである。

傍から見れば不自然極まりない事態であれども、そうである事はそうでしかないのだから、仕方がない。よって御託を並べる事でパスをしなければいけないのである。

しかしだ。仕方ないと言えども、「いつかは打破ないし迂回して解決しなければいけない問題」だってある。それに皆がいつまでも不可である事に寛容である訳がない事くらいは、大概の者は知っているはずだ。

いつまで経っても揃わない御託を並べ続けていても、いつまでもそのまま、という事だ。

今現在行動できない事について、今更どうこう言った所で仕方がないのだろう。だが、何にも繋がらない御託を並べるようになったら、そこで終わりであるのも確かだろう。ここでも終わりは相手の期待でもあるし、人間関係の構築でもあるし、自分の人生でもある。御託を並べるだけだと、そういう大切な者が失われていく。

せめて未来に繋がらない御託を並べるのはやめよう。少しでも明るい未来に繋げるための御託を並べよう。

「そんな事をやっても、どうせ無駄だろうから、やらない」という御託よりも、「価値があるかもしれないから、挑戦できる状態になったら、今度やってみるよ」くらいの御託の方が前向きではないだろうか。

まぁ、きっと後者も御託である。嘘である。誤魔化しである。しかし前向きな誤魔化しであるし、嘘が真に変化するパターンはある。

だが、前者の「対象に向かって唾を吐く」ような行為は己の心に呪いを掛けるようなものだ。自分が自分で吐いた何かで汚した物体に触りたいと思う人なんていないだろう。そういう行為を続けていくと自分が向かっていける対象がさらに減っていくのである。結果として何も行動できなくなるという呪いが完成してしまう。それだけは避けねばならない。

御託しか並べられないのならば、せめて良い役に繋がるような御託を並べよう。その積み重なりが、いつか心の邪魔な壁を多いに崩壊させる事を期待して。