裏表のイメージ

何事も物は言いようである。

継続は惰性だ。継続は力だ。惰性は弱さだ。ならばどっちが良いんだ。つまりは言いようである。
暴力を愛のムチと呼んだり、できちゃった婚を授かり婚と呼んだり、悪口を批判と呼んだり、炎上をバズと呼んだり。こう、表現を変えるだけで立場が変わるだけで、イメージがぐるっと回転してしまうのである。

まぁ、イメージを回転させた所で中心部に存在する物が変わる事はないから、イメージの裏側にいる人達はそれを否定するのである。

結局は自分の性質に沿った行動をポジティブな言葉で飾って心の平穏を保とうとするのだ。誰でも。というかこれができないと鬱になると思うし、これさえ上手にできれば阿呆でも結構幸せになれたりする。

人生の装飾技能。全体を通しての意味付け。そういった行為を磨いて、何でもポジティブなイメージに切り替えるようにすると、本人の脳内はお花畑が誕生し幸福感を得られるけれど、それは世間で言う所のダブルスタンダードという奴になる。

良い所しか見ない、という事は「自分にとって都合の良い解釈しかしない、一貫性がない」という評価を下されるし、実際の所、他人に迷惑を掛けるのである。

嘘と真実の割合

とは言えども、自分の行った行為の悪い部分に目を向けるというのは中々できるものではない。短期的には確実にマイナスだからだ。ある程度、心に余裕がなければ行える事ではない。

だからこそ、緊急事態で心が動揺して何とか自己を守らなければいけない状態の人の多くは、自己の行為に無理矢理でもポジティブなイメージを結びつける。そうでなければ心が壊れてしまうからだ。それをこじつけや嘘で取り繕う。

そして、そのこじつけや嘘のみが外見に如実に現れてしまうので、結果としては大衆から批判を浴びる事になるのである。大切な心の部分は外には見えず、それを取り繕うための飾り付けのみが外見に出現するのは厄介なものである。

それでも現実だけ心を維持するのは難しいから、人は現実と嘘の濃淡を心の状態に応じて変化させて、この世を生きるのである。

嘘は薬になり得る

そういう意味で嘘も全く悪い訳ではないと思う。

だが、「辛いことばかりが続く人」や「心が弱すぎる人」はそれを保護するために多量の嘘を自己に投与せねばならない。そうでなければ自分を守りきれないからだ。

しかしながら、嘘に嘘を重ねる行為を世間は嫌悪し侮辱する。信頼できない、一貫性がない存在を世間が受け入れるのは難しい。

だから余計に心は傷つく、より多量の嘘が必要になる。悪循環がそこに発生する。

その悪循環を断ち切る方法は何か?というならば、自己の内的世界について嘘を混ぜ込むのが良いだろう。現実世界に対して弱い嘘を吐き続けても、多勢に無勢である。でないと叱責されて嫌悪されて侮辱されて、嘘を嘘で塗り固めるしか道がなくなってしまう。

「誰にも迷惑を掛けない嘘」を自己の世界に混ぜ込み辻褄を合わせ、社会と折り合いを付けて、社会に甘えず生活している人を私は立派だと思う。

嘘は分量と塗る箇所に気をつけて使用する分には、上質な薬になる。