隣の芝生と先生

「先生と呼ばれる立場は金も貰えて偉そうな態度もできていいなぁ」

なんて思う事は正直言って、ある。だが、それは私が先生という職業に就いた事がないから言えるのだろう。きっと。いやどうなんだろう。

まぁでもたぶん、学園系ドラマに出てくるような先生みたいな生活を送れる訳ではないだろうと思う。ネットで聞いた程度だが、残業代もロクに出ないし拘束時間も長いし神経を使う事も多いらしい。

それに子供を相手にする職業である。疲れるに決まっているだろう。私は私の子供時代を思い出して、先生だけは絶対にやりたくないと思ったことがある。やっぱり大変なのだろう。

とは言えども、やはり隣の芝生は青い。やったことがないからこそ、希望と期待が膨らんでしまう。子供の純粋無垢な笑顔に癒やされたりするんだろうなぁ、と思ったりもする。

真剣に訴えかければ、非行少年少女も改心して先生の事を尊敬して、数年後に同窓会とかに呼ばれてチヤホヤされるんじゃないとか思ってしまう。

まるっきり嘘である。私は今の妄想を深く恥じる。そもそも同窓会にロクに出席していない私が何を言っているんだろう。人一倍、先生に迷惑を掛けて、ロクに感謝の言葉も伝えなかった私が何を言っているのだろうか。都合の良い事ばかり言いやがって。

なんか自己嫌悪になってきた。やっぱり私に先生は絶対に無理である。それが分かっただけでも今日は良い日だったと思う。


他人の気持ちなんて分からないよ

もうあれだ、「先生はいいよなぁ」的なトークは辞めようと思う。無理、正直言ってこれ以上精神的に辛くて続けられない。という過去を思い出したくない。過去を振り返りたくない、悪い意味で。未来だけを見つめていたい、過去逃避的な意味で。

子供は「親は甘い汁を吸っている!」と思うものだし、その逆も然りであり、まるで第三者的な立場の人間もそう思っている。つまりは自分以外の立場の人間は甘い汁を吸っていると思うのだろう。いや、私がそう思って生きてきただけなのだが。

実際問題、私は私であり、私以外の人間になる事はできないから、私は他人の心境を計り知る事ができないのである。あくまでも予測することしかできない。

それは先生であっても、きっとそうだろう。それも何十人もの世話をするのだ。無理に決まっている。しかしながら、先生という言葉には何故か「聖職者や徳の高さ」といったイメージが現代でもびっしりと貼り付いている。それが先生を過重労働や心理的苦痛を生み出すのだろうと思う。

隣人と勘違い

他人の芝生は青いと思うが、実際に快適な生活をしている人達は、そもそも公的な場所に毎日顔を出したりはしないだろう。きっと多くの人が羨み妬む人間を間違えている。羨み妬むべきは隣人ではなく、私がまるで遭遇できない誰かだ。

イメージは人の脳内で尋常ではない勢いで膨らむから、高潔なイメージを付与されている人ほど、そのイメージに苦しめられている事を固く覚えておこうと思う。