絶対に正しい行為とは

「善悪とは物の見方の基準の一つである」

私はこれを強く伝えたい。そうでないと社会は非常に生き辛いからだ。

というか「善とは何たるか?」という疑問に対して全世界的に共通の正答は存在しない。しないからこそ思想、信条、宗教などの対立で日夜人々は平和を実現できる土壌がありつつも争いの手を緩めないのである。

曖昧なのである、善という物は。曖昧なのに強く人を縛り付けるのである。曖昧だからこそ、人は善という物を深く考えて、答えがでないから大胆で強行な手段を取る事ができない。仮に善とは何か?という答えが見つかったとしても、それは他人の善とはイコールにならない。だから、善同士がぶつかり合う結末になる。

結局の所、善とは時代によって酷く曖昧である。どの時代でも共通しているのは、「自分は絶対に正しい!」と思える人間だけが、自己を善人だと主張できるということだ。

「自分は絶対に正しい!」と確信できる状況って、一体どれくらいあるだろうか?どんな状況でも「自分は絶対に正しい!」と思えるような行動を取れるだろうか?

私には取れないし、取れる人間は何かが歪んでいると思う。全ての問題において絶対に正しい答えを常に提出し続けるなど、人間業ではない。

曖昧な善を信用すること

人によって、状況によって、善の定義は変わるし、その変わり続ける時代と状況の中で「善なる行動」を取り続ける事ができる人などいない。善は酷く曖昧であるし、時代が正しいと主張する善が自分にとっては正しいと思えない場合だってある。

 

善は信用できないのである。まだ法律の方が信用できるのではないだろうか。

しかしながら、曖昧な善を頑なに信じ続ける事で、誰もが善なる心を抱くべきだと思いこんでいる事で、世間を苦しく生きている人がいるのは事実だ。良心の呵責という奴にいつも苦しめられるような人がいるのだ。

 

無論、自分の好き勝手に生きてもいいんだよ!なんて言う主張を展開したい訳ではない。ただ、曖昧で適当な何かに、そこまで自分の人生を振り回される必要はないのだと主張したいのである。

時代にも世間にも左右されない「自己の中の絶対的な善」というものがあるのならば、別にそれはそれでいいのである。どうせ、そういう人は止めても止まらないのだから、どうしようもない。

 

曖昧な善にすがって振り回されるのならば、もっと違う枠組みの何かを信じてみてもいいのではないだろうか?

自己適合率の高い基準を

例えば、「面白い」か「つまらない」かで行動基準を決めるとか。
例えば、「金になる」か「金にならない」かで行動基準を決めるとか。
例えば、「知識が増える」か「知識が増えない」かで行動基準を決めるとか。

 

基準はいくらでもあるのである。そして基準同士は二律背反の関係に相当する場合が多々ある。「金になる」ことだけを追求する時、善なる行為とはかけ離れる事があるかもしれない。「知識が増える」からと言って、必ずしも「面白い」とは限らない。

曖昧な善という奴を信奉している人達は、きっと別の基準だからこそ得られる物を蔑ろにしている。世の中には善悪という基準しかないと信じているからこそ、損をしているように思える。

そんなこんなで曖昧な善という物を否定し続けた訳であるが、曖昧な善にだって良い点はある。「敵を作りにくい」というのは、やはりメリットである。曖昧だから強く主張する訳でもなく、曖昧だから争う事もない、そして何より「善らしきもの」であるから他人を傷つける事も少ない。

そういう物を好むのであれば、別に「曖昧な善」を信じてもいいのである。

だが、それに疲れたのであれば別に生き方、つまりは別の基準を探してみてもいいのではないだろうか?

きっと別の基準にだって悪い所はあるだろうが、それは自己との相性次第である。自分に合わない基準を身に着け続けるよりは、マシであると思う。