最近の技術の発達は目まぐるしいから、私は長生きをしたいと思った


対面

長生きしたいと思った。具体的に言うならば、最近の目まぐるしい技術の発展の末の成果を、私は頬張りたいと心底思ったのだ。

技術に未来と可能性を感じる事が多くなった。その技術が私を心の底まで充足させる日が、どのくらい先になるのかは知らないけれど、知らないからこそ長生きしたい。

できることならば、その到来は早い方が良い。だから、私自身としてもその技術に貢献したいと思った。

知能で貢献できるのならば、行動で貢献できるのならば。それもしできなくても投資という手段を通して貢献したいと思った。

仮に到来した未来が現在とさほど変わらなくても、期待が膨れすぎて実態を冷静に見れなくなっていたとしても、確かに今現在の私は未来に希望が見えているのである。熱狂という表現がこれに近いのだろう。理屈ではなく、感情的に未来を良い物だと確信して生きられる状態はとても幸福だと思う。

だから、長生きしたい。素晴らしい技術に貢献したい。


熱狂

実際問題、その到来がどのくらい先になるかも、私がそれを体験できるかも不明である。

だけど、未来に希望を持って生きるのは純粋に良いことだなぁ、と染み染みと感じ入る次第である。

入学する時に、就職する時に、起業する時に、研究を進める時に、子供を育てる時に、その種が大きく育つ事を思い描く時、人は希望と熱狂の感情に浸ることができるのである。

そういう感情で常に生きていたいと心底思う。叶わなくても、きっとその人は幸せだと思う。

人は何事にも慣れて飽きてしまうという能力があり、それが退屈を生んでしまう。けれど、その反面、人の欲望はいくらでも湧くという能力もある、それが希望に繋がれば最高だろう。

儲かる生き方もいいし、人の役に立つ生き方もいい。その中に希望と熱狂があれば、何だって良い気がしてきた。

希望

夢のために死ねとは言わない。叶わない夢を追い続ける時の心境は絶望と呼んでも差し支えない状態だからだ。

「夢を叶えるか否か」という基準で人生を生きてもいい。だが、別の生き方として「希望を感じるかどうか」という基準で生きてもいい。これならば、多大な才覚は必ずしも必要ではない。

才覚のある人間に投資をしても言い訳だし、部分的に技術提供をしてもいいし、宣伝活動でその分野を盛り上げてもいい。「希望に携わる事ができれば良い」という意味ではハードルはそんなに高くない。

そう考えると「ワクワクする事をやり続ける!」みたいな某タレントが言った気がするこの台詞が、素晴らしいものに感じられる。

何が素晴らしいかって、成果ではなく自己の精神状態に注目している点が素晴らしいのである。希望という美しく輝かしい精神状態に自己を置く事を念頭にしている点で、「夢を叶えるかどうか」とはまた違う魅力がある。

希望を感じるってのも、中々良いものである。