「たかが言葉で傷つくなんて」と言えども、人は言葉に迷って乱れて救われる


言葉の世界で、堂々巡りする時に

「他人の言葉で傷つくのは、そもそも間違っている。」

そう思うことは少なからず、ある。特に他人の言葉で傷ついたときはそう思う。

心の傷を修復したいからきっとそう思うのだろう。誰も自分を殺す理屈を受け入れたりはしないから、言葉で救われている時にはその効能を疑いもしないのに、言葉が牙を剥いた瞬間に自己の意見を反転させる。

自分で自分を自分勝手な奴だな、なんて思いながらも、確かにそれも正しいのだろうと思う。また賛成と反対の美味しい所だけを抽出して味わっている。これは俗に言うダブルスタンダードなのだろうなと思うが、自己完結するダブルスタンダードの何がおかしいのか?と思う。

まるっきり支離滅裂で入り乱れている。陰も陽も混在させた思考の世界で私はグルグルと堂々巡りを行った末に、脳を疲れさせて眠って忘れてまた新しくなるのである。その新しさは過去と微塵も変わらないけれど、それでもミジンコサイズくらいの変化はあるはずだ。

私は言葉に救われて、言葉に虐げられている。その時その時で、「言葉の世界の救いの泉」へと駆け寄ったり、その逆に言葉の世界の悪鬼羅刹の巣食う場所から全力疾走で逃げ出しているのである。それを無意識に行っている。だから、思考は駆け巡り、一つのストレスを対処した暁に惰眠を貪るというイベントを得るのだろう。


「たかが言葉」と思うけれど

「言葉なんて、たかが鳴き声だ、そんな物で傷つくなんて下らない」

そんなメッセージだって言葉がなければ伝える事ができない。言葉の無力さを伝えるために言葉の価値を存分に使用する、という矛盾がそこにはある。

結局、「言葉の世界の甘美なる果実」を手にするためには、「言葉の世界の残酷さ」への対処法をしっかりと身に付けねばならないのだろうと私は考える。

都合の悪い言葉に遭遇した時だけ「言葉なんて所詮、、、、」と言った所で、言葉の世界で生きた人間が簡単にそこから抜け出せる訳がないのである。それはこの世を生きる我々が嫌な事に出くわした時に容易く自殺できない事と極めて似ている。一つの世界を抜け出す事は、そんなに簡単じゃないのだ。

そもそも人間という存在が「たかが」なのだ

人は言葉を使う。丁寧に使う人もいれば、乱暴に使う人もいる。我々はその両方をきっと体験した事があるだろう。

その時に言葉の素晴らしさと残酷さに気付くだろう。言葉を敬愛を示したり、言葉を憎んだりするだろう。

「ありがとう」の一言で今までの人生全てが救われたような気分になることもあれば、言葉だけが宙を舞い、お互いの意志なんてまるで伝達されず、個々人の余計な思い込みで想像以上のダメージを受けて争いを生むこともあるだろう。

言葉はたかが鳴き声であり、心はたかが脳の電気信号であり、体はたかが肉と骨の集合体である。我々は「たかが」の存在なのである。

微生物が微生物の事を「たかが微生物」とは呼ばないだろう。ならば「たかが人間」が「たかが鳴き声」を軽んじる理屈もまたないのである。

たかが言葉だ。だが私自分も些細な者である。ならば言葉についての扱いを、もうちょっと真面目に考えてもいいかもしれない。

「絶対に誰かを傷つける事を言わない!」とか、そういうあらゆる生物が一切死なないおとぎ話みたいな理想ではなく。言葉の世界の果実を増やす方法や、その逆を減らす方法。他人の言葉に自分の余計な思い込みを付け加えて、余計に傷つかないようにする方法などなど。課題はきっとたくさんある。言葉は人の命を彩る助けになるべきなのである。