狭い道のストレス要因は

狭い道。それは通りにくいという欠点があるだけではない。

狭い道を通るには、どうしたって体を縮こめなければいけない。でないと壁にぶつかるからだ。一軒家の誰かの植物を愛する気持ちが庭の中では収まりきらず、公道へとはみ出しているから、避けねばならないからだ。誰かとすれ違えば、お互いに避けるように譲り合うように歩かなければいけないからだ。

両腕をがんじがらめに縛られた状態では自由を感じられないように、体を縮めるように生きていれば心は窮屈になるのは必然だ。狭い道は人の心を狭くして、押し込める事により、そのプライドをも傷つけることになるのだ。

問題である。由々しき問題である。自分は体を小さくしなければいけないのに、悠々と植物が太陽に向かって枝葉を伸ばしている姿に一種の不公平感を覚えるし、歩道の隣の車道でもデカイ鉄の塊の中で涼しい風を浴びている人間がいる様子を見て、なんだか悲しくなってしまう。

ただ私は歩道を歩くという当然の権利、当然の行為、純然たる日常の一時を過ごしているだけなのに、なんだか損をしているようである。

狭い歩道は、ただ歩くだけで何か寂しい気持ちになるのである。身の丈に合わない事は、大きすぎても小さすぎても人の精神にストレスを与える物なのだろう。

そして狭い歩道の最大のストレスは、もっと他にあるのである。対向者の存在である。

対抗者との思考の読み合い

狭い道。人間一人の横幅で十分限界を迎えてしまうような道。その道すがら、植物の妨害や車両の騒音に耐えながらストレスを受けつつ進むのである。それだけでも辛い。

だがそれだけではない。向かい側に、向こう側に人が向かってくるのである。そのままお互いがなんらアクションを取らずに前進を続けるのであれば、両者はぶつかり合い、互いにダメージを受ける事は必定である。

つまりは対向者の存在である。対向人間の登場である。これがストレスである。

「こっちが車道にずれてどけばいいのか?相手がどいてくれるのか?それとも狭い道を半分ずつ譲り合うようにして衝突を避けるのか?譲って貰ったら会釈くらいしたらいいのだろうか?こっちが譲ったら会釈くらいしてくれるのだろうか?会釈もされなかったら私の心は不快になるのではないだろうか?どっちだ?相手はどう動く?私はどう動いたらいい?」

なんて言う脳内の会話が無意識的に行われるのである。言語化まではしないまでも、繰り返されたが故に洗練されたイメージだけの思考が精神を圧迫するのである。それも対向者が登場する度にである。

「何なら、いっその事、車道側を決まって歩くようにしよう!」なんてことを思っても、車は恐怖である。簡単に人をどつき倒す凶器である。そんな凶器が高速で走り回る道を歩もうとするなんて狂気の沙汰である。ならば狭い道で拘束されて生きた方がまだマシである。

ゲーム思考で道の開拓をしようか

だからこそ、私や私以外の人は狭い道を歩く時、思考のストレスを受けねばならないのである。狭い道にて精神を圧迫され、プライドを傷つけられるのである。

そんな道を通るのはもう辞めたい!という願望は確かにあれども、それ以上に目的地に近い道がなければ、やはり人はその道を通ろうとするのである。電車のストレスと似たような物である。その道を通らなければ成果をどうしても得られない状態だからこそ、その道を通ってしまうのである。

狭い道、困難な道、険しい道。人が通りたくない色々な道があるけれど、往々にして多大な成果はそこにある。参入障壁が低い領域であれば、否が応でも競技人口は増えるし、技術レベルも上がるのであるから、やっぱりそこには辛い道や高い壁が誕生するのである。

辛い道を忍耐の力で乗り越えて成果を得るか、誰もが知らない極楽な道を発見して独り占めするか、目的地へと到達するためのレースゲームとしての人生を俯瞰してみると、中々面白いものである。

人生をゲームだと考える事は不謹慎だと言われるけれども、ルールに則った上で納得した上でその道を歩く事ができれば、その時の気持ちは、ただただ無防備に苦難を受け入れ漫然と生きる時の気持ちよりかは遥かに楽しい物であるし、工夫の余地も生まれてくるだろう。

この人生がレースゲームならば、どんな道を開拓しようか。