結果を重要視すると何もできなくなる理由

「欲しい物がない」と思う事は多々ある。その度に自分の人生の退屈さに呆れてしまうのだが、実の所、深く考えると欲しい物がない訳ではないのである。

ただ、「欲しい物を手に入れるコスト」が高過ぎて手を伸ばせないから諦めているだけである。そして、達成できたとしても欲しい物の全てを手に入れる事ができる訳ではないのだ。それが切なくて歯痒くて情けない。

そんなこんなで「自分が人生を懸けてでも、欲しい物」というのが見つからず、努力したいと思う事が出現せずに、退屈な日常に辟易している。

「溺れる者は藁をも掴む」とは言えども、何も掴まずただ沈んで行く人間よりは立派な姿であることだろう。

「やりたい事がないから、欲しい者がないから、完璧は得られないから」と言って何もせず人生を浪費して退屈に過ごす姿はやはり情けなく格好が悪い。

「結果は大切じゃない」とは言わないが、過程もやはり大切であり、過程が充実してない結果なんて味気ない。結果が伴わなくても過程が充実していれば満足できたりもする。人間ってのはそういう一面があるんじゃないだろうか。


結果そのものを目的としない

だからまぁ、手に入らなくてもいいんじゃないだろうか?叶わなくてもいいんじゃないだろうか?そら手に入ればそっちの方がいいし、完璧に仕上がるのならば嬉しい。

結果を目的とするけれども、それはあくまで副産物なのである。矛盾しているだろうか?

ならばこう言えばいいだろうか?「結果に向かって全力を尽くす事が目的」であり「得られる結果は副産物」なのである。これならきっと伝わるはずだ。

だから結果を気にするのは大事なのである。結果を疎かにするのは過程をおざなりにしている証拠だからだ。だけど結果が全てではない、何故なら目的は「結果に向かって全力を尽くす事」なのだからだ。ベストを尽くしたからと言って、必ず結果が付いてくる訳ではないのだから。

そんな風に好みの方向転換ができると、今より幸せになれるだろうし、継続的に楽しめるんじゃないだろうか?

好きな事を大切にするのは大切だが、自分を幸せにする物事を好きになる行為も大切なんじゃないだろうか?

毒を愛して毎日飲み続ける人が幸せになれる道理なんかないのである。

私の好きな事は私を幸せにするだろうか?私の信念は私を楽しませるだろうか?

その辺を精査して変化させれば違う道が見えるはずだ。