薄いカルピスと慣れ

長生きしたい、とは思わない。

しかし密度の高い人生を生きたい、とは思う。

薄いカルピスを延々と飲まされるよりかは、ごっつい濃いカルピスを飲んでさっさとカルピスタイムを終えたいのである。

そう願いながらも私は日々の生活に順応していくことで、次第に自然に「ごっつい濃いカルピス的な体験を薄いカルピスに変化させていく」のである。日々の生活に慣れるとは、そういう事である。

まだ刺激の強い生活に慣れていない時は、自分の心も体も疲れ切って「もう濃いカルピスなんて勘弁!もうちょっと爽やかな感じの飲みたい!」と心の中で絶叫する。

その苦しみから逃れるために濃いカルピスに水を大量投入していくのだが、いざ薄いカルピスを前にした時に人は「なんやこのケチくさいカルピス!飲んでられっか!阿呆!」みたいな事を口にしてしまうものである。

まぁ確かに毎日同じ食事を口にするというのは、どんな物でも苦行に近い事を鑑みればその心理も理解できなくはないけれど、俯瞰してみると人間はちょっとアホらしい生き物である。

子供の頃だったら、躊躇なく原液投入する場面

そんな薄いカルピスをちょっとでも濃くするために、我々人間は日々の些細な出来事に自ら彩りを加えて美味しいカルピスを作ろうとするのである。

そうやって彩りを色々と加えている内に思うのは、「いつもやらないことをやると時間が増える、というか長く感じる」という体験である。なんか科学的なニュースとかを見ると、海馬が活性化して云々という事らしい。

小粋な表現をするならば、「新しい事に挑戦した人間へのちょっとした寿命のボーナス」と言った所だろうか。個人的には無為に長生きするよりかは、こっちの方が好きだ。

人は濃すぎるカルピスを薄めるために「慣れ」という能力を発揮するのだ。ならば、薄すぎるカルピスを濃くするためには「新鮮」を自ら摂取するのも人の知恵だろう。

人生がつまらない、と感情の鬱憤を吐露する人というのは「カルピス濃度調整技能」が少し未熟なケースも考えられるだろう。なんてくだらない事を私は考えた。

でも確かに自分だけのカルピスをお好みで調整できるというのに「味が薄い!」なんて文句を垂れているのは、やはり阿呆らしいのである。自分で濃くすればいいじゃないか、探せば原液はあるのだから。

子供の時分ならば当然の如くやっていた事を、大人は不思議と忘れてしまう。そういうカルピスなんて最近飲んでないな、飲もう。これが私の今日の新鮮である。