工事の騒音、社会貢献、人は生きれば害を生む


物理的暴力から精神的暴力の時代へ

騒音ってのは非常に不快である。不快であれば人は自然とイライラするのである。そこにどんな事情があろうとも不快な刺激を受ければ人はそうなるのである。

言葉の暴力があれば、五感への暴力もあるのである。暴力というのは一般的には物理的な肌に対する強い刺激だと認識されている。だが、現代においては体罰やパワハラのような触覚に訴えかけるような暴力には非常に当たりが強い世の中になっている。

そうなると、触覚に対する暴力は減る。非難されたものは基本的に減るのだ。

だが、その代わり別の物が増える。見えなくなった物は消えたのではなく、別の所に行くだけなのである。もっと深い所にある部分を根こそぎ刈り取らなければ治る問題ではないのである。

結果として、現代は言葉の暴力、つまりは思考という情報を使用しての暴力が大流行である。これは人によっては大ダメージを与えられる物であるし、「そんなつもりはなかった」「相手が勝手に傷ついただけ」「誤解するあなたが悪い」という言い逃れによって責任を回避する事が比較的容易であるため、多用されるようになった。

現代人は陰湿だと言う人もいるが、それは「攻撃方法が限定された事」と「限定された行為に陰湿な物しか残っていなった」という事に原因があるのかもしれない。


暴力を振るわない人間なんていない

人はなんであれ暴力を使う。暴力という表現以外を使用するのならば「よりよく生きるために何らかの力を行使する」のである。それは自己主張であり生存戦略である。

その時の力の使い方には色々あり、先に挙げた通り「言葉の暴力」や「触覚の暴力」なんかがある。

人間には五感があるから、「視覚の暴力」「聴覚の暴力」「嗅覚の暴力」「味覚の暴力」なんかが他にもある。この辺でメジャーになってくるのは個人的には、視覚と聴覚だろう。まぁ匂いなんかも不快である。味覚なんかはそこまで目立つようなものではないだろう。

人は外に出れば誰かに見られるし、歩けば音が出るのである。つまりは誰だって誰かに暴力を振るう可能性はある、という事だ。

「見た目がなんか不愉快」とか「食べる時のクチャクチャするのがキモい」とか、そういう日常にありふれた行為が他者に不快感を与える事は往々にしてあることなのだ。

とは言っても、別に私は生涯家の外へと出るな!なんて事を主張したい訳ではない。人は生きるだけで誰かを傷つけ誰かに傷つけられるのである。そこは一つのコミュニティの中で円滑に事が運ぶように各々が忖度をする部分であり、どこの誰とも知らないような人間が一々口を出す事ではないのだ。

役に立つ事は

じゃあ、私は何が言いたいのか?と言うなれば、特に主張したい事がある訳ではない。ただ愚痴を吐きたいだけである。

うるせぇ。という話だ。工事の音がうるせぇのである。困ったのである。せっかくの休日であるのに、朝早くから目覚めさせられて今もなお私の聴覚に対して暴力的な爆音を届けている次第である。

奴らは仕事である。生きるための行為であり、社会をよりよくするための行為である。だから仕方ないと言えば仕方がないのである。

とは言っても、迷惑を掛けられる側からすれば、そんな事は知ったことはないのである、だってうるせぇのだから。

「世界をよりよくするために、お前!死に給え!」なんて言われても「はい!わかりました!」なんて爽快な回答は私にはノーセンキューである。ありえないのである。

私は私の幸福を追求するために、どこかに行って誰かのために行動するのである。そしてその折に誰かに不快感を与えているのかもしれない。

きっと工事のおっちゃん達も同様であろう。彼らだって各々の幸福のためにどこかに行って社会の役に立っているのである。社会を生きる人間と極々自然な事であり、社会のために活動しているのだから、それは至極立派な事である。


遠くの世界に理想を委ねる心理

だが、やはり私からすればうるせぇのである。そこはきっと生涯揺らぐ事はないだろう。

「遠くで誰かが誰かの役に立っているという美談」に頬を緩ませる私ではあるが、近くで誰かが社会貢献をする傍らに私に迷惑が掛かるのであれば私は鬼の形相を取るしかあるまい。

きっとこれは私個人の人格が歪んている事に起因するものではないのだろう。人とはそういうものなのだと思う。

「みんな誰かの役に立って生きて欲しい、私に害がない範囲で」

これは人類共通の人間らしいご都合主義的な思考であると私は信じたい。私の人格は歪んでいるのだろうが、この考えくらいは当たり前の物だと思いたい。

という訳で工事の音が限界うるせぇなので、私は外に出る事で聴覚の暴力から逃れる事にする。