100回叩いて壊れない壁は常識的に101回叩いても壊れないと思う

努力は人を成長させる。それは確かだ。

しかしながら努力した人が全員成功するか?という話になれば、答えはNOである。

一番は一人しかいないのだから、100人が同じように努力しても当たり前に一番は1人だけだ。

だからこそ、才能に応じた適性だったり、努力の方法なんかを突き詰めていって、自分が一番になれる場所を模索するというのがお利口な発想であると私は思う。

適性だったり、効率だったり。そういう人を開花させるための観点にも色々とあるのだが、その中でも閾値って概念も非常に大事だなぁと思う今日此の頃である。

「100回叩いても壊れない壁でも101回叩けば壊れるさ!」という発想だけではなく、「100回叩いても壊れない壁でも1回だけ物凄く大きな力で叩けば壊れるさ!」という発想もこの世にはあるのだ。

「そもそも100回叩いても壊れない事が保証された壁が101回目で壊れる可能性ってどれくらいあるのだろうか?」と私は思うのだ。科学的な学問に疎い私であるが、そんなに高くはないように思える。

別の発想として「最初の一回だけ物凄く大きな力で刺激を与えてみて、どういう反応をするのかを観察する」という方法があっても良いように思われる。この世には閾値というものがあって、それ以下の刺激であれば何の反応も示さないというケースが存在するからだ。


成果条件と終了条件

そういう意味で、日々の好習慣であっても閾値を超えずに何の成果を出さない習慣であるならば、それは見かけ上だけの好習慣、ということになるだろう。ならば、毎日コツコツやるよりも、一週間に一度で良いから閾値を超えるだけのエネルギーを注げるだけの時間を設け事の方が、成果を挙げるのではないだろうか?

努力を行えば何らかの鍛錬と学習は行われるのは確かだが、「成果や利益」が得られるかどうかは閾値を超えるかどうかなのである。現代風に言えば成果報酬という奴である。その時、「頑張ったんだけどねぇ、、、」という温情が掛けられる余地は一切ない。

無思考的に「毎日やっていれば、いつか報われる日が来るさ!」と行動する事は気楽である。そして確かに多くの場合は、毎日続けていればそれなりの成果が出る。だが、そこでの成功体験はある種の危険を伴うのである。「努力を続けていれば、成功する」という思想は悪くはないが、下手をすれば泥沼化する場合がある。

「成果を得るための条件」と「成果が得られない場合、いつ終了するかの条件」がまるで考慮されていないから、いつまでも意味のない行為をズルズルと続けて泥沼化してしまうのである。

せめて変化を付けたらどうだろう

閾値を考えるというのは「成果を得るための条件」に繋がる。どの地点を超えたら成果が得られるかどうか?というのが閾値だからである。

とは言っても、実際問題、閾値がどこにあるのかなんて分からないし、そこまで思考するのは億劫だと思われる方もいるだろう。まぁ、それはそれで仕方がないのだろう。

だが、ならば「刺激を与える分量をたまには変化させてみる」という試みくらいはしてみても良いのではないだろうか?そうすれば、ある日偶然大きな力を加えた時に、絶妙な力を加えた時に思わぬ変化と発見があるかもしれない。それこそが勝利へのキッカケである。

毎日同じ結果に終わる同じ努力を命が終わるまで続けるよりかは有効であるだろう。

無為で退屈な結果に終わらせるのは、無為で退屈な行為を行うからである。

変化に富んだ行為を愛するのならば、変化に富んだ結果が得られることだろう。変化に富んだ行為こそが、いずれどこかの閾値を超えて新しいステージへと連れて行ってくれることを祈る。