悪口の動機は正義のためか?

悪を暴くのは素晴らしい事だろうと思う。糾弾するのも大事だ。しかしながら、毎日のようにネチネチと遠回しに嫌味を存分に織り交ぜて行われる悪への攻撃は、何だか不思議と発言者が悪人みたいな印象を抱いてしまう。

「悪を糾弾する」という行為そのものはきっと正しいのだろう。だが、その動機が「鬱憤晴らし」であるような気がするから、きっとモヤモヤとした気分になるのだろう。

「なんだか今日はムシャクシャする」からの「誰かを攻撃したい」からの「でも普通の人を攻撃したら非難されるし反撃されるかもしれない」からの「じゃあ正義の皮を被って悪人を攻撃しよう!」みたいな心の動きで行為を行っているような気がするから、なんだかしっくり来ないのである。

と考えていた所でさらに考える。

「世の中結果が全てなのだから、その人の心情が如何なるものであっても、それはどうでもいいのではないだろうか?」と思ってしまうのである。

要は【社会人が「とっても努力しました!」というアピールだけで成果を期待するのが世の中を舐めた行為】だと私は考えてしまうのであるのだから、その逆に結果さえ素晴らしいものに落ち着くのならば、その人の心や過程なんて気にしてはならないだろう、という事である。


結果が良ければ報酬は出すぞ

理屈だけで冷静に考えるのならば、正しい結果さえ出すのならば動機なんてどうでも良い、という事なのだろう。現に、「指名手配犯、捕まえたら〇〇万円!」みたいな張り紙はある。公的にも金を目的として悪を罰する事を許可しているような物なのである。

私のモヤモヤ感というのは、総合的に考えると欲張りなんだろうなぁ、と思う。「正しい動機と間違った結果のセット」を許さないのであれば、その逆である「間違った動機と正しい結果のセット」は許すべきだろう。でないと筋が通らない。

「正しい結果以外は許さない!」と言いながら、間違った動機にまで口を出すのは強欲としか言いようがないだろう。厚かましい限りである。

そらまぁ、一番理想的なのが一番良いのだが、現実はそうもいかないのである。だから結果が最高だけど過程が雑な商品を我々は罪のない子羊のフリをして内部で過酷な労働環境が構築されていようとも、知らぬ存ぜぬで購入するのである。

そんな過酷な労働環境に声を上げるのは、自分が被害者になった場合か、攻撃しても自分に火の粉がかからないAND自分の鬱憤晴らしになるような場合くらいなものである。そんなものである。

それでも、誰かの気晴らしで労働環境が改善されれば儲けものだし、自分の身の可愛さで職場を改善したって、善は善である。だって結果として将来は明るくなったのだから。

その辺をゴチャゴチャ欲張って「心も善でなければいけない!」なんて、心の善の在り方なんてそもそも曖昧な事にケチをつけると、せっかく成されたであろう善すらも成されない。

妥協も時としては善である。