何故長寿にこだわる?

健康を科学する記事ネタは非常に人気があって、「何々は実は身体にとっても良い!」とか「何々は実はめちゃくちゃ身体に悪かった!」とかって記事は物凄く読まれる。というか私も結構読む。

読むんだけれど、そういう記事ってのは寿命が減る!っていう意味での健康効果を測っている物が多いんだよなぁ、と思う今日この頃である。

健康って言葉には皆色々なイメージがあるとは思うけれど、やっぱり大半の人にとっても健康とは「長寿」という事なのだろう。

そんなに長寿ってのは素晴らしいのか?まぁそれはまだ私が老いぼれてはいないから、そう思うのかもしれない。老人になってしまえば、「いつ死んでもいい、でも今日はヤダ」みたいな感じの有名な格言?みたいな心境になるかもしれないし、水素水を有難がってがぶ飲みするかもしれないのだ。未来の心境は未来の自分にしか分からないのである。

そう考えると、まだ死にはしないだろう私が長寿を真っ向から否定するのもおかしいのかもしれないが、やはりそれでもおかしいと思うのである。「その時になれば分かるよ」って意見もあるかもしれないが、ならばその時になって違っていた事が分かったら訂正する事にする。今は今の私が抱える意見こそが正しいと思うのである。

長生きってそんなに素晴らしいだろうか?長寿ってそこまで執着するものだろうか?


質✕量=云々

人生の価値を何で測るのか?それは断定することは70億人程度の人にインタビューをした上で慎重に協議を重ねて決定しなければいけない問題なので、何度も人生を繰り返さないと人生の価値が分からない事になってしまうので諦めるが、「長寿」という言葉を有難がっている人々をヒントにして、大体の人が思っている人生の価値ってやつを推測してみようと思う。

少なくとも「長寿」を意識している人達は「長く生きる」事を大切にしているのである。何故長く生きたいのか?それは人生の様々を楽しみたいと願っているからだろう。長く生きれば、それだけ多くの人生体験ができる、そう思うから長生きしたいと思うのだろう。

じゃあ、どんな体験がしたいのか?というと、辛い体験を望む人は少数派だろう。辛い事に果敢に挑戦する人はいても、それは最終的に素晴らしい価値を獲得するために行っている人がほとんどだろう。

そうである。皆、快に繋がる素晴らしい体験がしたいのである。そしてそれは長生きしていれば、長生きするほどに獲得できるものだと思っている。だから、皆、長生きを尊ぶのであると。

いやいや、それは本当なのか?と私は疑わざるを得ない。

少量を重ねても高い結果は出ない

ただダラダラと生命活動を続けても、向こうから幸せが歩いてくる道理はない。

無闇矢鱈と心臓を鳴らし続けても、面白い体験が起こる訳でもない。

結局は自分で向かって行かなければ、何事も手に入らないというのは少年時代を終えた頃くらいには誰もが内心気づいているはずだ。だが、それが分かっていても愚直に楽しい体験に向かっていける人は少ない。怖いからか自信がないのか諦めているのか。その辺は人それぞれだが、大半は単調な日常に心を沈める。

とは言えども、楽しい経験が欲しくない訳ではない。というか欲しい。ならばどうすれば良いか?チャンスが多ければ良いのだ!なら長生きしてそのチャンスを増やしてやろうではないか!

なんて事を長寿を尊ぶ人は思うのだろうか?

「塵も積もれば山となる」とは言うけれど、きっと人生の中で求めた物は塵ではないはずだ。もっと素晴らしいものではないのか?しかしながら、そういう行動に出てしまうケースは多い。ゴミがいつか宝物に変わるのだと信じて、ひたすらゴミを溜め続ける人がいる事は否定できない。

 

その辺を色々と考えると、やはり長生きに執着するのはダメな事なのではないだろうか?何故なら折角チャンスが到来しても、見逃す癖が付いてしまうからだ。いくらチャンスがたくさんあっても、臆病になってゴミしか掴めないのならば、その人の人生が素晴らしいものになることはないだろう。

量が大事な場面は勿論あるだろう。だがそれは人生という最終スコアにおいて重視するものではない。(そこそこ良い物がたくさん、とかならばまだ良いが)

本当に欲しい物を手に入れて人生が素晴らしいものにしたいのならば、ダラダラとチャンスを見送るような思考に嵌らないためにも長寿信仰は捨て去ったほうが良い。

皆が最終的に欲しい物は「高い質」であり、それはただ長く生きるだけでは獲得できるものではないのだ。