学校の勉強って強制させたらダメじゃないか

後々何かの役に立つかもってのも、イケない。よくあるのが「将来、何かの役に立つかもしれないから、勉強しておこう!」である。

勉強しないよりかはマシかもしれないが、効果のほどは薄い。何故なら目的に向かって行動できていないからだ。「目的地は決めていないけど、とにかく歩こう!」って言って歩き始めて、一体どこに辿り着くのだろうか?仮にどこかに辿り着いたとしても、その場所に何か意味があるのだろうか?

学校の勉強というのに私があんまり意味を感じないのは、きっとそういう事なのだと思う。とりあえずバランス良く色々な学問を勉強させて、子供が駄々をこね始めたら先生は「これを勉強しておけば、将来きっと役に立つはず!勉強しないと後々困ることになるわよ!」的な事を言って強制させる。

自分が大人であることを悪用した陰湿な嫌がらせにしか思えない。そらまぁ先生という立場になれば勉強は役に立った、と言う事はできるだろうが、言うまでもなく、皆が先生になる訳ではない。極々一部の人間だけである。そんなレアケースの人にしか役に立たない内容を全員に行う必要はない。

というか、「先生になるための学問」は先生になりたい人の役に立つのだろうが、結局それって先生の役にしか立ってないじゃん。誰のための、何のための勉強かって事を理解していないと酷い事になるのだろう。


要するに、自己の目的のために生きろ

「純粋に何かを学習するのが好きで、趣味で勉強やってます!」という人も極稀に存在するらしい。そういう人に関しては全然問題はないと思う。何故なら、勉強することそのものが目的なのだから。その人はちゃんと目的に対して行動できている。

言ってしまえば、問題なのは「何の目的もなく生きている」という事なのだろう。そして、「何の目的もなく生きている」のに、生きる目的を探そうともしないし、それなのに皆から取り残されるのが嫌だって理、とりあえず死にたくないと思ったりするが故に、とにかく頑張ろうとするのが問題なのである。

何よりも一番大切なのは、自分自身の目的を所有して、そのため生きることである。みんなと合わせる生き方も、死なないように生きるのも、どう考えても虚しい。だから、何かに焦って嫌だけどとりあえず勉強する、というのは良くないのである。そんな行為で少しの幸せを獲得しても、トータルでは不幸になる。

だから、後ろ向きな気持ちで「よく分からないけど、とりあえず何かの役に立つかもしれないから勉強しよう」と言うのは辞めたほうが良い。逆に、同じ台詞でも「自分自身の目的を見つけるため」ならば問題はないだろうが。

やりたくない事のための生きるのは良くない。簡単に言えばそうだ。何かをやるならば、それは自分の目的に向かってやるのが、楽しいに決まっている。

だから、「将来何の役に立つかさっぱり分からない学問」と「自分の目的を叶えるためにやりたい事」があるのならば、何の躊躇もせずに、自分の目的に向かって進むのが良いと思う。