ふわり、カタルシス

救われたい気持ちは誰もが同様に持っている。自分の思いは自分だけの物であり、自分の苦しみもまた、自分だけの物である。それは言葉で伝えようとも態度で伝えようとも、完璧に伝わることはない。厳密な意味で己を救う方法は、最終的には自分頼みになるのである。

凝り固まった苦痛。それに伴う雑念の発露。連鎖的に連なる苦痛。どれも避けたいと渇望するが避け難いものであり、こんな苦痛は私だけのオリジナルであり自分は特別だと思い込む。実際には他者だって似たような苦しみを保有している可能性だってあるのだが、やっぱり他人の苦痛を知る事はできない。だから私は特別だ。そんな傲慢的理屈が余計に自分の心を凝り固まらせる。

この状態から開放されたらどんな気分だろうか。どんなに幸せになれるだろうか。幸せになりたい。どんな事をしてでも、他者がどんな苦しみを背負うとしても。

はっきりと言語化はしていないにせよ、誰もがそんな思いを抱えて我こそが一番乗りで幸福になりたいと日々蹴落とし合いを行い、誰も幸せになれない馬鹿馬鹿しいゲームに執着しているのではないだろうか?

くだらないことなんて、きっと皆わかっている。でも誰も言い出せない、言う人が居ても聞く耳を持たない。みんなが同時にみんなを信頼して託すなんて行為は大人になった我々には至極、不可能な行為なのである。

現実に疲れてしまっただろうか?生きるのに飽き飽きしてしまっただろうか?人間に失望してしまっただろうか?それでも死にたくはないだろうか?

苦しみが心を凝り固まらせても、死にたくなっても、失望しても、簡単に死ねる訳でもないし、死ねない理由もきっとある。だから無理やりにでも体と心を引きずって前に進むのである。

いつか救われる日は来るだろうか?分からない。

でも、いつの日にか、いつの日にか、そういう雑念や執着や苦しみを諦めて受け入れて心を軽くする日が訪れますように。