人と仲良くなるのが怖い理由について

友達を作る事は良い事だと学校で習った。まぁ確かにそうなのだろうと思う。それは間違いないだろう。

関わる人間が多ければできる事は増えるし知識も考え方も大量かつ柔軟になる。人間一人では気づけない事も他者の視点があれば簡単に気づけることもある。だから他者と仲良くなるのは良い事なのだ。それは分かる。

だから、良い事だからと言ってそれが必ずしも好意的な感情を引き起こす訳ではない、というのが今回のテーマである。

人と仲良くなるというのはどういう事だろうか?それは他者に「自分の事を好きになってもらい」、尚且、「自分が他者の事を好きになる」という事なのだろうか。一方的な感情ではなく、双方向的な感情であるのが仲良しという事なのだろう。

では、どうすれば他人の事を好きになるのだろうか?はたまた自分の事を好きになってもらえるだろうか?その鍵は「知る」という要素が関連しているに違いない。

その人についてのデータがほとんどない。その人の外見と声くらいしか知らない。そんな人を好きになれる確率は稀である。余程、外見と声が魅力的でない限りは、そうはならないだろう。

では逆に、その人の趣味や出身地や職業や考え方や好みなんかを事細かに知っているとしたら、どうだろうか?何も知らない状態と比べれば、幾分かその人に対して行為を抱くのではないだろうか?きっとそのはずである。だからこの世には自己紹介という何百何千何万と行われてきた行為が、今日も未来も行われるのである。

その人について知っている事が多ければ基本的には行為を抱くようになっているのだ。それもその人の人格に関わる要素を知れば知るほどにだ。まぁ自分の人格とまるで食い違う場合には逆方向へと動くけれども、それでも余程の食い違いがなければ多少は好きになるのである。

そう考えていくと、つまり仲良くなるってのは、自分の内面的精神的な要素を他者に開示していく行為であり、他者の内面的精神的な要素を開いていく行為と言う事ができる。

きっと、その「開き開かれる」という行為が怖いのだと思う。開くのも怖いし、開かれるのも怖い。何故なら、そこには何が入っているか分からないし、どういう評価がされるのかも分からないからだ。

さらには、どういう評価がされたか、というのも内面的精神的な要素であるから、全てが表に現れる訳ではない。分からない要素が多すぎる中でお互いに好意を高め合うという動作を続けなければいけないのである。そんな一連の動作はインディアン・ポーカーなんかをやっている時のような緊迫感を含んでいる。ゲームであるから顔を笑っているけれども、内心は冷たくしているような、そんな裏表は別離しているような感情である。

まぁ、そんなこんなが人と仲良くなるのが怖い理由なのだろう。私は常日頃からそんな事を考えたりはしないけれども、急にふと冷静になった時に、そんな事を考える。またすぐに忘れて幸福に生きるのだけれども、常にこんな思考を巡らせている人がきっとコミュニケーションに悩みを抱えているんじゃないだろうかと、私は今を思いを巡らせる。